伴田良輔の『眼の楽園』―バラとデイヴィッド・リンチ

 最近、“普遍的な美”とは何かについて、考えることがある。二度手間三度手間のかかる雑務に忙殺されたりとか、某芸能事務所の会見を〈非人情で悪辣だな…〉と思いながら見ていたりすると、たちまち自己の美意識が失われていくような恐怖にかられたりする。
 さらにその逆、日常生活で「美しいもの」と接している時、この美は永遠のものなのか、それともいつか滅びてしまうものだろうかなどと考え込んで、相対的に自己の美意識における“普遍的な美”の根源を追い求めてみたくなるのだった。

バラの花

 美に関して、疚しい考えなどない――。
 古今東西の老若男女の誰しもが「美しい」といって賛辞するものの一つとして、バラの花を挙げていいのではないだろうか。バラはバラ科バラ属の総称であり、日本人はこれを「薔薇」と書いたりもする。「しょうび」ともいう。
 ただし、これから述べるバラは、例えば牧野富太郎著『植物一日一題』(ちくま学芸文庫)の「ノイバラの実、営実」に出てくる「ノイバラ」のような、日本古来の野生の原種のそれではなく、いわゆるモダンローズの、ハイブリッド・ティーだとかイングリッドバーグマンなどというバラ――強いてはそれの赤いバラ――を指すことに留意していただきたい。

【伴田良輔著『眼の楽園』の装幀はバラの花なり】

 アメリカの写真家ポール・アウターブリッジ(Paul Outerbridge, Jr.)の作品に、「バラと雲」(Roses And Clouds/1933年)というのがある。
 それを無知な私に教えてくれたのは、ヴィジュアリズム文芸の巨匠・伴田良輔氏の『眼の楽園』(河出書房新社)の本である(前回紹介したのは「伴田良輔の『眼の楽園』―最後尾の美学」)。この日記風の著述の「薔薇と雲」という稿に、バラについて記されてあった。

 1896年生まれのアウターブリッジは、アメリカ陸軍に入隊以後、コロンビア大学のクラレンス・ハドソン・ホワイト(Clarence Hudson White)が設立した写真学校で写真について学び、マン・レイやデュシャン、エドワード・スタイケンらと出会い、商業用の写真スタジオを建てた。その後ニューヨークでも写真スタジオを設け、前衛的なヌード・フォトの作品を生み出しつつ、商業写真家としてその地位を確立した。
 ちなみに、『眼の楽園』の装幀のバラの画は、アウターブリッジのバラの写真を何かしらモチーフにしたものと思われる(この本の装幀・レイアウトは木本圭子、押見香)。さらに目次の手前のページでは、
《もうそれ以上に触るな それが薔薇だ》
 というスペインの詩人フアン・ラモン・ヒメネス(Juan Ramón Jiménez)の「ポエマ」(『石と空』より荒井正道訳)からの詩の引用も記されていて、まことにバラづくしである。
 こうした伴田氏の荘重な美意識は、私個人としても大いに刺激になった。これすなわち、大義として咀嚼するところの、“眼の楽園”の面目躍如が、“普遍的な美”の象徴のバラなのだ――ということがいいたかったのではないだろうか。

【デイヴィッド・リンチ監督の映画『ブルーベルベット』】

リンチの『ブルーベルベット』

 アウターブリッジのバラ写真における“普遍的な美”に対して、等しく目を奪われたのが、アメリカの偉大なる映画監督デイヴィッド・リンチ(David Lynch)であったというのが、伴田氏の論考である。

 伴田氏は某月某日、シネマライズ渋谷で2回目の『ブルーベルベット』(Blue Velvet/1986年)を観たという。むろん、この映画はリンチの作品である。モントリオール国際映画祭の主演男優賞などなど、名誉ある数々の賞を受賞している。
 映画の冒頭では、庭と思われる場所で、白い木製柵の手前でいくつかの赤いバラが咲いて揺れているショットが出てくる。伴田氏によるとそれは、アウターブリッジの「バラと雲」の写真にそっくりだという。
 アウターブリッジのヌード・フォトにもベルベット(天鵞絨)へのフェティシズムが想起され、リンチの『ブルーベルベット』は、青いベルベットを着た場末のクラブの歌手ドロシー――演じたのはイザベラ・ロッセリーニ(Isabella Rossellini)――の性的倒錯シーンがきわどい映像美である点で、そのベルベットが共通項といえばそうであり、伴田氏は、《D・リンチがP・アウターブリッジの色と肌ざわりを借用あるいは引用したということなのやろか》と述べている。

 それがどういうことなのかを知るには、映画を観るしかない。
 ここでは、『ブルーベルベット』のストーリーを、必要以上に明かさない程度に説明しておきたい。またこのストーリー展開が、いかにもリンチらしいのだが…。

 青年ジェフリー――演じたのはリンチ作品の常連俳優カイル・マクラクラン(Kyle MacLachlan)――は大学生で、父親が急病で入院。そのため、地元の田舎町ランバートンに帰郷し、父親が営む小さな金物店を手伝うようになるのだが、殺風景な原っぱで偶然にも彼は、「人の片耳」を発見し、それを拾った紙袋に入れ、おののくことなく警察署におもむき、もともと知り合いである刑事ジョンになにごとかを報告し、早急にこの片耳事件の捜査が始まるところから、青年ジェフリーの特異な行動のサスペンスへと進展していく。

 ジェフリーはジョンの娘のサンディ――ローラ・ダーン(Laura Dern)――から、片耳事件の捜査上の“秘匿すべき情報”を父親の談話から聞いてしまったという告白を得て、事件と関わりのある場末のクラブ歌手ドロシーの住むアパートに侵入することをサンディと画策。
 そうしてジェフリーは留守中のアパートに侵入を試みたが、あいにくドロシーが帰ってきて姿を見つけられてしまい、彼は裸にされ、ドロシーから性的接触を強要されそうになる。
 しかしジェフリーの方も、若くして好奇心旺盛なせいか、女性からの性的強要はまんざらでもなかった。その時、ある男がやってきて、慌ててドロシーはジェフリーをクローゼットに隠れるよう指示する。
 その男、青いベルベット好きの偏狂的な麻薬常習者フランク――デニス・ホッパー(Dennis Hopper)――は、ドロシーの夫と子どもを別の場所に監禁しているため、ドロシーが自分の言いなりになることにかこつけて、セックスを強要する。ジェフリーはクローゼットの中からその一部始終を目撃し、フランクという男のただならぬ恐ろしさを知る。

 その後ジェフリーは、この片耳事件に関する全くの個人的な興味と好奇心から、ドロシーへの性愛(=肉体的欲求)にかられつつも、そのかたわら、高校生の少女であるサンディに対して奇妙なほどの恋心をつのらせ、客観的には青年ジェフリーの心情を推し量ることはできない。むろんサンディは、ジェフリーのふしだらな欲望の沙汰に自分が振り回されることを、この時まだ知らない。

 さらにジェフリーの突飛で危険な行動――ドロシーへの強い関心と性的快楽の欲求――は、その背徳の二人の逢瀬に気づいたフランクの心情を逆なでし、ジェフリーに対する憎しみと敵愾心から、凄惨な暴力沙汰となり、ジェフリーは大怪我をしてしまう。

 このあと、事態は急変していく――のだけれど、客観的にみてこの映画の肝は、三者つまり青年ジェフリーと女ドロシー、そして麻薬常習者の男フランクの、相乱れる異様な行動と思考性にあるのだが、観者すなわち映画鑑賞者の側は、その一つ一つの目撃に苦悩し翻弄され、知らず知らずそのリンチ独特の“混沌とした沼”に陥り、汚れた空間でさえも観者が没入していくような、そんなある種の“卑猥な快楽”ですら堪能できる。この映画はそういう不思議な魅力のある作品といえよう。
 ちなみにあのベルナルド・ベルトルッチ監督も、この『ブルーベルベット』を、英国の映画雑誌『Sight & Sound』の2002年「映画監督が選ぶオールタイム・ベスト10本」の一つに選んでいる(『キネマ旬報』2023年9月号より)。

リンチが描く性愛の世界

 謎めいた狂気の世界を、シーン及びショットの隅々からじゅうぶんに満喫できる――あるいはさらに深々と謎めいて苦悶すること請け合いなのが、『ブルーベルベット』という映画の領分なのだけれど、リンチが描く愛情面もしくは性愛におけるその快楽性の《未成熟な部分》についても若干ふれておきたい。

 このことは、冒頭の赤いバラに象徴されていると私は思っている。
 リンチという人は、家族愛、隣人愛、友情、恋人どうしの愛情に関して、とてつもなく理想主義者であることが想像される。それも率先した他者への愛情の投入という行動性よりも、むしろ他者から自己へ愛情が注がれることを願わくば望んだ、そういう夢想家であったといっていい。別の言い方をすれば、潜在的に「母性愛に飢えている人であった」ということなのかもしれない。

 バラの花の“普遍的な美”への憧憬がまず冒頭のショットで提示され、リンチ自身はそれをある種の「官能の装置」として企図したのだろうが、決して作者の心は満たされていないふしがある。なぜなら、バラは決してそれを目撃している者に対して、つまり眼差しの張本人であるリンチ自身に対して、美の様態を形式的に振りかざす以外に愛そのものを注ぐことは不可能だからだ。

 ジェフリーを通じて描かれる性的なエピソードにおいては、どういうわけだか官能がほぼ未遂で途切れてしまうようなショットに終始し、とくにジェフリーとドロシーのあいだの肉体的な充足感は表現として伝わってこない。したがって、それぞれの性的な欲求のキャッチボールは不全なまま終わっているのではないかという疑問が残る。

 フランクは暴力的ながらドロシーと性交し、自己の性的欲求を満たしたかに見えるが、何よりドロシーが性的暴力の被害者であり、フランクが望む《母性愛》に相当する性的な行為の欲求を、真に受けて応対するだけの愛情がもとから無いこと。一方でドロシーは、夫と子どもを愛する身でいながら、ジェフリーと貫通し、半ばジェフリーのサディスティックな行為を期待して、自身のマゾヒズムの欲求を満たそうとしている“密やかな暗がりのシーン”においても、互いの性的欲求が噛み合っているとはいえず、セックスの成り行きとしては、あまり“いい形”では描かれていない(シナリオがそうだからであり、そのシナリオもリンチの表現願望に基づいているため)。

 さらにいうと、男友達のジェフリーに対するサンディの心境はズタズタで、ジェフリーとドロシーの肉体的関係を知った以後は、よりいっそう彼を心から受け入れることはできないはず――なのだけれど、リンチはその非情な関係性をよしとせず、中途半端な形でそれを「無垢なる少年少女」の擬似的な関係として描ききり、さも純潔な心が宿ってハッピーエンドに至るかのような二人の様子は、実際的にはありえない話である。
 仮に私たちが恋人どうしになったとして、のちのちこのオトコは他のオンナと浮気するに違いないわとサンディが思うのは当然のはずだが、不思議にもそうではない様子で、無垢なるオトコ心を信じ、苛烈な純愛に勤しみ、仲睦まじさの渦中に跪いているのはまだ彼女が幼いせいか。あるいはもっと、別の理由があるのか否か――。

【伴田良輔『眼の楽園』の「薔薇と雲」】

アリとガムシの昆虫

 総じてこの映画は、三者の人物が潜在的な自己愛に狂って満たされず、愛情の往来がどれも不完全なままにしか見えないのはとても気がかりだが、リンチ自身はそこに確固たる愛があると信念を貫き、この映画を異様な世界に描ききってしまっている。それゆえに、方々から“カルト作品の巨匠”といったような賛辞が上がって、この『ブルーベルベット』はのちの『ツイン・ピークス』につながる彼の代名詞的作品となったわけだ。

 こうした欲望と性愛に関する分析を通じ、伴田氏はそれを達観して、アウターブリッジのバラの話を持ち出したのだろうか。
 だとすれば、彼は素晴らしく繊細な指摘をなした、ということになる。
 バラという花は、あまりにも“普遍的な美”の源泉を私たちに垣間見せてくれる。バラの花言葉は、「美」と「愛」だそうで、「淑やか」や「上品」といったイメージも相まって、贈り物としては最適で花であり、当然のごとく、万人に愛されている。
 ただし何度もいうように、ここでいうバラは、野生由来のノバラではなく、あくまでモダンローズの種の、人の手によって栽培された、いわば人工的な美――そういう夢見心地的な美の在処を指す。
 普遍的ではありながら、そのバラの人工的な美に対し、リンチの崇高な「愛情」の、その理想主義的な官能は、映画的試みにおいてどうやら対抗できず、未然に終わり、形なしなのである。これは、“普遍的な美”に対する敗北――。だからこそ敗北感の対処法として、冒頭のバラの花のショットなのであり、リンチは映画の中で「愛情」の様々な形を示してみせ、諦めることなく果敢に、“普遍的な美”に抗おうとしていた、ともいえる。

 ところで伴田氏は、「薔薇と雲」の中でこんなことを述べている。

そういえば冒頭でアリのアップが出てきた。気色悪かった

伴田良輔著『眼の楽園』「薔薇と雲」より引用

 果たしてあれはアリだったのだろうか。いや、アリに違いない。地べたに捨てられた「人の片耳」にたかるアリのうごめきの描写であった。
 だが私は、そのもっと前のシーンで出てくる、草叢に潜むガムシのような昆虫のざわめきにこそ、気色悪さを感じた。
 些細なことではあるが、そのガムシと見える昆虫が、本当はいったいなんの昆虫であったかについて、私は以前、アメンボのことでやりとりしたことのある、昆虫研究家の松島良介氏にのちのち訊いてみたいとも思っている。

 それはそれとして、『ブルーベルベット』の映画における情緒的な人間愛の構図と、象形的な構図――すなわちそれは、ガムシのような昆虫であったり、アリがたかる切り取られた片耳であったり、人の全裸であったり、さらには剥ぎ取られたベルベットの布切れ――が分別なく溶解して描写されている点で、リンチの描く摩訶不思議な世界、それは逆説的に到達し得ない“普遍的な美”へのノスタルジックなまなざしをも惹起してしまうのである。
 まるで幼年の子どもが、無邪気に土いじりしたり、草叢に踏み入ったり、青い空をずっと眺めていたり、裸ん坊になって部屋の中を駆けずり回ったりするように――。

 アウターブリッジの写真はどこか楽園的である。翻ってその彼を信奉するリンチの世界は、とうてい楽園には見えない。鈍い玉虫色の光を放った、ダークな世界である。
 楽園には決して見えないが、しかしそれもまた、人間にとって楽園なのに違いないと思うことは、どうやら可能らしい。滅びる寸前の、あるいは腐敗する寸前のなにものかを、人は妙に愛してしまうものなのだから。

 そうして私は今宵、人知れず映画『ブルーベルベット』を暗がりの中で観てしまうのであった。いずれこの話は、驚愕の名作『ツイン・ピークス』につなげたいと思っている。

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