母校の図書室と小説『大地』のこと

 イングランドの小さな町の教会に、シェイクスピア(William Shakespeare)の墓があって、どうも超然としておらず、その彼の彫像は威厳がなく平凡だ――という話を、何かの本で読んだ。ここからしばし、ある記憶について想像を巡らせたのだった。

 私の母校の小学校では、80年代当時、それぞれの年度の卒業生一同が学校に寄贈した「卒業記念オブジェ」(例えば抽象的な大樹を造形した彫像)を校庭内に設置したり、苗木を庭園の一角に植えたりしていた。
 ところが、私が卒業して10年が経った頃に、思いがけず小学校の校庭を眺望する機会があったのだけれど、それらの記念オブジェはすっかり無くなっていたのだ。
 よくよく考えてみると、非情とも不条理ともいえなかった。寄贈したものだからといって、いちいちオブジェを毎年校庭に設置などしていたら、どういうことになるのか。たちまち校庭がオブジェだらけになり、子どもたちの遊び場が縮小してしまうではないか。それに気づいた学校の方針としては、もはや古くなった用無しのオブジェを、断腸の思いであったかどうかは知らないが、片っ端から処分していったに違いない。

 子どもは量産され、学校に次々と入ってくる。
 学校はひとりひとりの個性や思いを尊重する場ではなく、受動的に入ってくる子どもたちに与えられるだけの指導をしているのみの機関だ――ということを、まざまざと理解した。転じていえば、平凡な彫像の墓であってもシェイクスピアはシェイクスピアで、名の通った世界のスーパースターであり、我らの田舎の子どもたちは踏み絵にもならない教育現場の足跡を、たった0.001ミリほどの学校史に刻まれたにすぎない存在なのだ。古いオブジェが取り壊されたのは自明なのである。

母校の小学校の図書室

 ちょっと悲しげな気分になり、何気なく母校の小学校のホームページにアクセスしてみた。するとそこには、学校の図書室の画像がウェブ日記の中に掲載されていたのだった。それを見て先日私は、各SNSで、以下のような文面をポスティングした。

さっき、急に思い立って、母校の小学校の“図書室を利用した授業風景”なる画像を見た。図書室の雰囲気とか、受付用の堅牢なテーブルが昔のままそっくりあって、地味な雰囲気が変わらず、すごくいいと思った。変わったのは、本の量。本棚がめちゃくちゃ増えていて、いっぱい本が置いてある。夢中になって読み耽ってる子どもたちの姿見たら、将来頼もしいなって気がしてきた。

2024年9月10日付Utaro/青沼ペトロのBlueskyより引用

 へたな想像では、今の時代の小学校の図書室なんて、昔と比べて利用率が低く荒んでいるのでは――と懸念するのだけれど、どうもそれはお門違いの想像であって、逆に母校の小学校の図書室の環境は、今の時代にこそ充実していたのである。これはまことに誇らしく喜ばしいことだった。
 我ら団塊ジュニアが片田舎の学校にて、将来の氷河期時代を案じつつ、文学者になりたいだとか、作家になりたいとか、音楽家になりたいなどと口走ったところで、平々凡々とした若い先生がニヤニヤ笑って応えるにすぎなかったあの頃を思うと、今のこの子たちは、それがほんの一握りの夢であったとしても、きちんと応えてくれる先生と、そうした夢を具体化できるだけの環境が整っていることを私は感じたし、それを信じたい。そしてその子らは、夢に向かってしっかりと羽ばたいてくれるに違いない。そんな事を願って、私は真に応援したいのだ。

『大地』で怒られた思い出

 希望に満ちた話の後で、私のグダグダとしたくだらない思い出話を書くのは憚りたいところなのだけれど、つい思い出してしまったので書くことにする。

 小学校の図書室に入り浸って江戸川乱歩の「少年探偵」シリーズなどをよく読んでいたという話は、「江戸川乱歩から始まった私の小説旅」で述べた。学年ごとに読書の習慣づけを啓蒙し、クラスでは個人で借りた本の数を競って棒グラフにした図表を、教室の後ろの掲示板に貼り出していたほどである。小学6年の時の教室が3階にあって、すぐ目の前の階段を降りると、2階が図書室だった。
 普段、子どもたちは早朝とか、昼休みとか、放課後に図書室を利用するものだ。本を読むのにたっぷりとした時間が必要だから。私もそうした時間帯に利用していたのだけれど、その時だけは別だった。というか、急用だった。急用で、図書室に行かねばならなかった。

 授業と授業の合間の休み時間は、10分ほどである。私はその10分の休み時間に、一目散で階段を降りたのだった。図書室に向かって…。
 誰もいない暗がりの図書室はけっこう不気味なものだ。しーんとして静まり返り、きゅっきゅと鳴る上履き靴の音が妙に響いて落ち着かない。――ある本が目的だった。私はある本の装幀画が見たくてたまらなかったのだ。それはつまり、小学6年の思春期に、途方もない欲望を抱えていたということなのだろうか。決して悪事ではない。悪事ではないが、しかし、誰にも見られてはならない。知られてはならない。そうした背徳の行為であることはじゅうじゅう承知していた。
 暗がりの図書室の中で、私はその本を手に取った。

 ポプラ社アイドル・ブックス。パール・バック(Pearl Buck)の小説『大地』――。

 この本の装幀には、女の人が描かれていた。女の人は佇立していて、胸元の衣服がはだけて乳房があらわになっている。私はこれが見たかったのだ。これだけが見たいあまりに、こっそりと図書室にやってきて、暗がりの中で悶々と燃えさかっていた欲望を鎮火したのだった。

 いいかげんにしろよ、と自分を責めることをしなかった。

 誰も知らない、自分だけの秘密――のはずだった。そこには、明らかにおっぱいが描かれている。その事をどういうわけだか、私は別の日に、友人に打ち明けてしまったのだ。自分でも意外なほど、大っぴらな態度で…。
「どこにそんな本がある? 教えろよ」
 急き立てる友人に、私は『大地』の本を取り出して見せたのだった。友人は乳房を見て興奮した。周囲が妙な具合に騒がしくなり、大変なことになったと思った。先生がやってきて私を睨んだ。

 いいかげんにしなさいよ、青沼くん。

 私はこの記憶を、忘れていたのだ。こんなちっぽけでくだらない思い出であるがゆえに、この何十年間、ずっと記憶の奥底に埋もれたままだったのだ。ふいにあの図書室の画像を見て、ぽんとその記憶がよみがえった。大地…装幀画…おっぱい。

 考えてみれば、その本の画に夢中になっただけで、どこの誰が書いた本だとか、どんな物語の本なのかさえ、全く興味を抱かずにきてしまっていたのだ。今ようやくこの歳になって、いいかげんにしろよ、青沼――と自分を責め立てたいくらいである。

§

 大変馬鹿げた話を掲げてしまった償いとして、私はポプラ社の『大地』(深沢正策訳)を買い求める。また、この原作の映画を観たいと思う。これは有言実行したい。お約束する。
 小説『大地』を解説するWikipediaの中の一文に、英国の作家ヒラリー・スパーリング(Hilary Spurling)のバックへの見解が挙げられていて、厳かな風が私の細い身体を通り抜けるような気がした。《バックは中国の貧困層の生活を深く掘り下げ、「宗教原理主義、人種的偏見、ジェンダー抑圧、性的抑圧、障害者差別」に反対している》――。
 映画を観た後に、いずれまた。

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