とある青年が、昼食時にスマホをいじらず電子辞書を愛玩して孤独なオフライン生活を営んでいるエピソードを紹介したのは、もうかれこれ9年も前になる(「オフライン男子」)。
基本的に仕事は真面目だけれど、他人とはほとんど口をきかず、笑顔も見せない青年。そんな無色透明な日々の暮らしに決して懐疑的でもないという青年を、私はオフライン男子――と名付けたのだった。掛け合わせてこれは、インターネットのオンラインにも乗らず、実生活においても「他人と乖離したオフライン生活」を送っていることを意味している。
その頃においても、彼とは別の、ある女の人がオフライン女子であったことに、私はしばし気づかなかった。だが、確かにもう一人、オフライン女子なる女性がいたのだ。
仮にその人の名を、ハナコさんとしておこう。
ちなみに前述した9年前のオフライン男子の名を、マルオくんとしておくことにする。

天涯孤独のハナコさん
私が知る限りにおいての、ハナコさんとはどういう人なのかについて、簡単に書き出してみる。(※私が直接本人から聞いたり見たりした部分に加え、他者から聞いたり見たりした話も含む。)
- 40代の女性。独身。
- 親・兄弟はいない(親類縁者はいる)。
- 独りでアパート暮らし。
- 付き合っている人が昔いたとか、今いる、とかいった話は一切聞いたことがない。
- 友達と何をして遊んだ、という話も一切聞いたことがなく、おそらく幼少期から友達は一人もいなかったと思われる。
- 趣味は食べること。クレーンゲームで遊ぶこと。お酒はけっこう飲むらしい。
- 化粧はしない。常にすっぴん。
- おしゃれに疎い。
- 仕事はどちらかというと真面目。出世欲はない。承認欲求はやや高い。
- 他者とのコミュニケーション、計算、論理的な思考は不得意。
- スマホなどの電子機器をいじるのが苦手。触れば壊れると思い込んでいる。
- スマホで文字を打つのが苦手。めったに打たない。
- SNSの経験なし。メールのやりとりも受信するだけで、自分から送信したりすることはほとんどない。
- 他人と会話をしただけで顔が赤くなり、アガってしまう。
- 日常生活で何か事変があると、すぐ興奮気味になってそのことが頭から離れなくなる。
- 他人とのおしゃべりがとにかく苦手。3分と会話がもたない。
スマホはいじらない
ハナコさんもマルオくんも共通していえるのは、他人とのコミュニケーションが苦手で、特定の話し相手がおらず、結果的に「友達がいない」ということだ。
マルオくんはまだ、電子機器をいじることが不得意というわけではない。だから、直接的に他人と会話するのが苦手なのであれば、オンラインのSNS(ソーシャル・ネット・サービス)などで話し相手を見つけることは、将来的には可能だと思われる。この点においてまだ、社会の縮図から離脱しきってはいない。何よりマルオくんの場合、家族がいないわけではないので、話し相手がいない状況とはいえない。
それに比べ、ハナコさんは驚くほど例外的な立ち位置にいる。
全くの天涯孤独。家族がいない――。
もともと一人っ子で、両親に先立たれて天涯孤独となってしまったハナコさん。それでいて、過去にも先にも友達ができないし、友達と遊んだ経験が、たぶん無い。
ハナコさんは、スマホをほとんどいじらないのだった。
今の時代の人々は、とかく、固執してスマホをいじり倒す。オンラインに乗っかる。それ自体、好む好まざるの問題ではなく、何より生活必需的な行為なのであって、オンラインでの通信目的(用途)は様々であろう。他者との連絡、ネットショッピング、ニュースアプリの閲覧、画像の送受信、マップを使って移動先の確認、クラウドへのアーカイブ、ChatGPTのようなAIで何らかのアウトプットを引き出す…などなど。
だが彼女は本当に例外的に、それらの今日的な日常生活の有り様からほぼほぼ離脱してしまっている。プライベートで他者と連絡する機会がない。ネットショッピングは訳がわからないから利用しない。ニュースは興味ないから見ない。スマホカメラは使う目的すらないので、撮った画像がどんどん貯まっていくということもない。むろん送る相手もいない。旅行も学生時代の修学旅行以外行ったことがなく、近場の街中で買い物をするだけなので、Googleマップなんて使わない。クラウドっていったいなんのことだかさっぱり…。
そうしたことから、スマホが苦手――ということと、「ワタシは友達が一人もいない」ということの因果関係は、やはりあるのだった。ハナコさんは都市伝説に弱い質(たち)なので、自分で「これは苦手なもの」と決め込んでしまったら、もうその呪縛から解脱できないのである。
友達をつくろうと思っていない
ネット上のオンラインにほとんど乗らないわけだから、LINEのようなものを使ったためしがないというのも、あえて付け加えて述べる必要はないだろう。交信する相手がそもそもいないのだから――。それと、SNSなんていうものは、彼女にとって皆目見当もつかない四次元の世界に感じられているに違いない。
これほどまでにハナコさんが、他者との親しい関係性や接触を拒む理由については詳らかになっていないし、おそらく誰も知らないと思う。私も知らないのだ。外部とのつながりが極端に希薄で、むしろ意識的に遮断しているといったほうがいいかもしれない。
それはつまり、“離れ小島”であり、あるいは暗黒の宇宙に独りぽつんと漂流してなんとか生き永らえている“ボイジャー1号”みたいな存在だ。
ボイジャー同様、彼女にとって「交信」は最大の試練であり、命綱でもある。しかし、人生最大の夢が「交信」だなんて、そんなことが人として、社会人として、あり得るのか。私は驚きを通り越し、半ばあきれてしまうのだった。
彼女からすれば、事務的な要件や用事で、会社の人と電話でやりとりする機会はある。それ以外には、行きつけのマッサージの予約だとか、食事先の席の予約だとか、そういった類いの他者との交信は、普通におこなわれているであろうことは想像できる。例えば会社の事務員に、「申し訳ないんですが、今日はお休みします」の電話を入れる程度の会話が茶飯事としてできる人――であることは、私もよく知っている。その手のおしゃべりはやれる人だ。
しかしながら、プライベートということになると、前述したように、まるで様相が違ってきてしまうのだ。
親しみの関係を持つ相手が、いない。
自分の他愛ないつぶやきであったりとか、何かを内々に告げたり打ち明けたりする友人が、一人もいない。
本当にあり得ないくらいに、彼女の内情にごくわずかだけでも触れてくれる友が、ゼロ=いない。
彼女の全生涯を通じて、それらは、“無い無いづくし”――なのであった。
「ワタシは友達が一人もいない」のよ――という絶望的に潔癖すぎる状況は、誰が考えても寂しいし、つまらない日常だと思う。肉親とのやりとりもできなければ、兄弟なんていうのもいないのだから、友達をつくる以外にないではないか。もし、おしゃべりできる友達がいないとなれば、いったい何が楽しくて生きているといえるのだろうか。
あえてハナコさんは、独りで居たいのか。あえて友達をつくらないつもりなのか。孤独であることのリスクは相当あるだろうに、なぜそれを選ばなければならないのだろうか。
§
そうして私は疑問を感じるのだった。
状況の深刻さについて、当人の自覚が足りないのか、あまりにも生涯を通じて虚しさに浸りきってしまったために、あえて努力をしなくなったのか、そこのところはよくわからない。
ハナコさんの立ち位置は、マルオくんよりも「遙かに深刻」なのであって、「容易ならざる状況下にある」と思うのだが、そういったことも含めて、これはいわば、ハナコさんに対する余計な詮索ということになってしまうのだろうか。

トモダチってなんですか?
それは仲が良いということ
友達っていったい何なのだろう――と逆に思うわけである。
友達がいる、いないの問題以前に、トモダチの定義について考えたことが、私自身あまりなかったかもしれない。辞書をひくと、こんなふうに記してある。
[学校などで]仲が良く、いっしょに遊んだりする人。
三省堂『現代新国語辞典』第七版より引用
《なかま。クラスメイト》とも記してある。
その類語には、友人、友、仲良し、つれ、イツメンとあって、イツメンの語釈を調べると、《いつものメンバー。ふだん行動を共にしている友だち》とあった。
つまり、基本的に仲が良い――というのが、友達の定義の必須条件なのであって、仲が悪くていっしょに遊んだりしない人は、決してトモダチとはいわない、わけだ。
これを踏まえても、本来的に友達とはいったい、どういったものなのだろう、と考えてしまう。ハナコさんの場合、「友達のいなさ加減」がハンパではないからだ。
日頃、ちょっとしたことで仲が良くなっちゃった――というような、そんな具合に友達ができるきっかけというものを、誰しも経験してきていると思う。しかし、ハナコさんにはそれすらも無かった、ということになる。あまりに不干渉すぎやしないだろうか。
よくよく考えてみると、ハナコさんの日頃の態度というのは、ちょっと度が過ぎて、社交辞令が多すぎる気がするのだ。ここに、相手との距離感が縮まらない原因があるのではないか。
相手を気遣いすぎて、社交辞令で事を済ましてしまう――。
この段階においては、決して仲は良くならない。相手も立場上、距離を置き、敬遠してしまうから。
しかし、社交辞令をやめたところで、相手と仲が良くなるかどうかについては、まだ疑問の余地がある。まだ何か、足りないものがあるのではないか。
もう少し、相手と自分の立ち位置がフラットになるように心がけて、相手のことをほんのちょっと、「好きになる」という感覚が必要なのではないか。いや、これはおかしないい回しになってしまっている。
「好き」という感覚は、あくまで湧き立つもの。そうしたように漠然と、なかなか言葉にしづらい面があるのが、「好き」という感覚。ほんの少し心にびびっとくるものが、「好き」なのだとすれば、ハナコさんはそうした感覚に疎いのかもしれない。

友達が「いない」ことの意味
そういうこととは逆に、「友達が全くいない」ことによる利点や自己肯定感についても、可能性として考えてみる必要があるのではないか。
例えば、私自身、20代の後半期において、「孤独であった」とか「友達がいなかった」といった文章を書いた経験が、たびたびある。
しかしこの場合、“その期間において友達がいなかった”という意味であって、過去にも先にも友達がいなかった――わけではなかった。むろんのこと、友達がいないことで幸せな気分に浸っていたわけでもない。大いに不安で、隔絶した心理状態の中でもがいていたといっていい。
ハナコさんは、そんなふうに自分の中で思い悩んでいるのだろうか。あるいは逆に、その状態を快楽として歓喜しているのだろうか。
「ワタシは友達が全くいない」のよ、という状況下で、ごくごく自然に幸福感を得ていたり、ましてや自己肯定感に満足しているのだとすれば、なんてことはない、私の余計な詮索など、無に等しい話じゃないか。これはもう野暮な話だった――ということになる。
端的に自分自身が、生涯を通じて孤独であるなんて、一度も考えたことがない人生というのは、その人にとってなんとも刺激的な、ロマンティックなものなのかもしれない。
§
結局のところ、この結論は、持ち越しというより、持たずにいたいのだ。私としては。
本質的なひとりぼっち、ということと併せて、トモダチって、そんなにいらないものなのだろうか、利便性の悪いものなのだろうか、紙くずのようなものなのだろうか、ということが、私の頭から離れなくなってしまっているのも事実である。逆説的に考えれば――だ。
ハナコさんの状況を考えると、ついそう思ったりもするのだけれど、こんなことを書いている私自身、ハナコさんが気がかりで気がかりで、とか、彼女が「好き」――という感覚は、毛頭無いのであった。
度が過ぎたオフライン女子(あるいはオフライン男子)における「友達のいなさ加減」について、それを心理的な解毒法として捉え、そのままの状態が彼らにとって自然体で、それなりに幸福感を得ているのだな――と考えて納めてしまうことだってできる。何の心配もいらないのだと。
あるいは逆に、それを不幸と感じることさえも、あまりに遠い距離にいる極北の話に思えるので、何か突破口は開けないものか探る必然も、私にはない、というべきか、ともかく答えに窮してしまうのであった。
温かいコーヒーを飲もう。
すなわち、彼らは失敗なんかではなく、それが一つのアイデンティティとしての精一杯の態度なのではないか。
追記:「アルコール依存とオフライン女子のこと」はこちら。


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