※以下は、拙著旧ホームページのテクスト再録([ウェブ茶房Utaro]2004年7月11日付「東京上野―回顧と散策」より)。
〈1〉上野のデパート
東京上野は、私にとって、とても縁のある場所である。
小学6年生の頃の話。私とその友人にとって、上野へ行くということは、片道1時間かけて電車に乗る、楽しい遠足イベントであった。その日も、上野の国立科学博物館を見て回った。本館の他に別館ができてきた頃だから、すべてを見て回るのに、かなり時間を要したはずである。それはともかく、見終わった後の帰りに、駅前にあるデパート(今の丸井デパートの前身)の玩具売り場に行き、何を買うわけでもなくぶらぶらした。だがその時、ちょっとしたアクシデントが起きる。私は自分の財布を、どこかに落としてしまったのだ。
財布がない。どこで落としたのだろうか。
お金はそれほど入っていなかったけれど、その財布の中に「帰りの切符」が入っていたのだ。その切符がなければ、帰れないじゃないか。私と友人は、上野に来るときはいつも、往復切符を買っていた。往復切符を買った方が割安だったからだ。私は財布の中に復路の切符を入れておいたのだが、どこかで落としたか、置き忘れてしまったらしい。方々の売り場で探し歩いたのだが、私の財布はどこにも見つからない。友人は、最初こそびっくりしていたが、とても楽観的な性格だったので、
「いいよ、別に。切符代ぐらい僕が出すから」
と言ってくれたので、ちょっと安心してデパートを出た。本当に一人じゃなくて助かった、と思った。
気持ちが楽になり、もう少し遊んでから帰ろうと、御徒町の方へぶらぶら歩いていった。が、ほどなくして友人が突然立ち止まった。
「あれ? 切符代…ないかもしれない…」
彼はポケットから小銭入れを取り出し、中を確認した。彼の「帰りの切符」1枚と、あとは1円玉だの5円玉が仲良く重なって寝ているだけだった。私はとたんに青ざめた。さっきまでの安穏とした気分は吹っ飛んでしまった。このまま私は上野に一人きり残り、野宿するのではないだろうか、とか、家まで歩いて帰らなければならないのではないか、とか、急に頭の中が綿帽子のように軽くなって、ふわふわどこかへ飛んでいってしまうような目眩を感じた。
「あれ? 切符代…ないかもしれない…」
彼はポケットから小銭入れを取り出し、中を確認した。彼の「帰りの切符」1枚と、あとは1円玉だの5円玉が仲良く重なって寝ているだけだった。私はとたんに青ざめた。さっきまでの安穏とした気分は吹っ飛んでしまった。このまま私は上野に一人きり残り、野宿するのではないだろうか、とか、家まで歩いて帰らなければならないのではないか、とか、急に頭の中が綿帽子のように軽くなって、ふわふわどこかへ飛んでいってしまうような目眩を感じた。
上野から電車で、地元の駅まで約1時間の道程だ。私はとにかく絶望的な気分になった。それから私と友人は、無意識にあのデパートへ戻っていた。エスカレーターに乗り、またあの玩具売り場へやってきたのだ。どうしてもここで、「帰りの切符」を探し出さなければならない。本当に泣きたくなるほど絶望的な気分であった。
どれほどそこで探したのだろうか。
その時はものすごく長い時間が流れたように感じたのだが、ほとんど数分の間だったのかもしれない。売り場の中年女性の店員さんが、私に話しかけてきた。
「ぼく、どうしたの?」
私は財布をなくした経緯を話した。無我夢中になって話した。
「そう、困ったわねぇ」
店員さんはしばらく間をおいてから、どこかへ行ってしまった。私は玩具売り場の床をじっと見つめたまま、何とも言いようのない哀しみに打ちのめされていた。
やがて、あの店員さんが戻ってきた。
「たぶん、探して見つからないようだから、これ、持って行きなさい」
店員さんが私の掌にのせたのは、4つに折りたたんだ岩倉具視の500円札であった。
「もうなくしちゃだめよ。気をつけて帰りなさい」
私はその500円札で切符を買い、家に戻った。友人とどんな会話をして帰ったのかは、覚えていない。だが私は、寝る前に、〈今度上野に行ったら、あのデパートで500円以上の物を買って帰ろう〉と誓ったことだけは覚えている。これが、東京上野と私が結びついた記念すべき日である。
〈2〉駅のホーム
10年以上も前、私が千代田学園の学生だった頃。その頃は、とにかくよく上野駅周辺を歩き疲れるまで散歩した。何故かと言えば、週に一度――確か毎週木曜日だったと思うが――午前の講義の後、午後の講義までがおよそ2時間ほど空き時間となっていたからである。
毎週、その2時間をどうやって過ごすかが私にとって問題で、それはある意味楽しみでもあり、反面苦痛でもあった。上野駅のホームで、列車の発着を「見る」というのが、一番多かった時間のつぶし方だったかもしれない。それ自体、最初こそ辛かったが、習慣になってしまえば案外苦ではなくなった。
主にベンチに座って眺めていたのは、東北・高崎線の発着する14・15番線ホームであった。駅のグランドコンコースから改札口を抜け、そのまま13番線ホームに入ったところに、立ち食い形式のそば・うどんの店があった。今はその面影はない。そこで昼食(主にカレーライス)を済ませ、薄暗く湿った14・15番線ホームのベンチに陣取る。構内に響くベルの音、アナウンス、列車から波のように降り立つ乗客たち。乗客の中の、和服姿の中年女性が妙に艶やかに見え、その憔悴しきった肩の流曲線に、わずかながらの憂いを感じ取ったりもした。
ホームで列車の発着を見るのも飽きた頃には、鶯谷の方の通りまで歩き、小さな書店に入り浸ることもあった。そこで買った1冊のいかがわしい文庫本。今でもその本は大切に持っている。何故か捨てられない。
千代田学園を卒業して何年か経った頃、学校が懐かしくなって食堂でも覗きに行こうかと上野に出掛けていって、写真を撮るつもりでいたが、校舎はなくなっていた。…電車の車窓から見ることのできた十数階の大きな建物。壁には巨大な時計が模造されていて、窓の奥に生徒の影が見える。すぐ隣の別館には、OA機器を並べた教室とレコーディングスタジオがあって、学園特製の黒のジャンパーを着て、別館と本館を思い切り走って往復した時のことを思い出す。ミュージカル科の発声練習、けたたましい吹奏楽のチューニングの音。裏通りでは、イラスト科の連中が外で写生をしている。インカムを頭に付けたまま、せわしく走り回っている放送芸術科の生徒たち…。私はこういった環境で2年間を過ごしたのだった。
そのすべての風景が、今そこにはない。
マンションになってしまっている。
誰かが、何者かがこの風景を変えた、とも言えるが、ずっとそこに在り続けてほしいと思うものほど、あっけなく消えてなくなる。人も動物も、物も時間も、建物も都市も、いつか消えてなくなる。私も愛する人も…いつか消えてなくなる。
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