※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年2月19日付「philosophy notes」より)。
岩波書店発行の『図書』2月号、熊野純彦氏のエッセイ「西田の影のもとで――詩人哲学者の系譜について」を興味深く読ませていただきました。
深田康算の論攷「美しき魂」を一つの例に取り上げ、エッセイを以下の文で締め括っています。
《すくなくとも、西田の思考の文体の陰で、いまそのすがたが見えにくくなっているものがある。それは、詩人哲学者たちの隠された系譜であったように思われる》
西田とは、言うまでもなく、西田幾多郎のことです。
20代の頃、書店へ赴くと必ず、三島由紀夫の文庫本(新潮文庫)の書棚に目がいき、1冊ずつ買っていきました。最終的には、『近代能楽集』や『豊饒の海』を読まずに、司馬遼太郎の文庫本へ心が移ってしまうのですが、三島の文庫本のすぐ隣に、どこの書店でもほとんど同様にして、三木清の『哲学ノート』や『人生論ノート』が置かれており、度々私はそれを三島の本だと間違えて手に取ってしまったことがありました。もし三島由紀夫が『哲学ノート』という題で集成を編んでいたら、間違いなく私はそれを買っていたでしょう。
何か自分に重大な悩みがあって、“哲学”に触れるのではなく、単にその厳格な響きに惹かれて、そうした本を読んでしまうというのが、私の場合の“哲学”との接点です。こう言ってはなんですが、西田幾多郎という人の、顔が、眼鏡が、いかにも“哲学”という深奥を如実に表していることを、私は心の中でいつも思っていたりします(笑)。ちなみに、石川県金沢市の「石川近代文学館」は私のお気に入りスポットです。
さて、私の家の書棚にひっそりと、あまり読まれずにいた2冊の本『日本近代文学評論選』【明治・大正篇】【昭和篇】(岩波文庫)を徐に手に取ってみました。
【昭和篇】の花田清輝著「錯乱の論理」もまた、哲学的文体で圧倒されます。
そう言えば来月、私は所用で浅間山麓の北軽井沢を訪れる予定なのですが、「堀辰雄文学記念館」にも寄れればと考えています。第一次戦後派と呼ばれる堀は、反プロレタリアの流れで新心理主義文学を打ち出します。花田清輝の指す、心理主義的芸術とは何か、といった論駁(批評)の矛先は、堀辰雄のような文学なのでしょうか。私は両者とも詳しくないので、これ以上掘り下げる気はありませんが、必ずしも《西田哲学》に依らなくとも、かつての時代は盛んに、文壇の中で“philosophy notes”が渦巻いていたように思います。
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