筑波山神社での写真

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年3月8日付「筑波山神社での写真」より)。

【男体山コマ展望台付近にて】
 筑波山の男体山の頂上をケーブルカーで登るには、中途、「筑波山神社」の境内を通り過ぎなければいけません。
 1981年の春であったか、小学3年生(8歳)だった私は、学年の遠足で筑波山に登っています。この時往路は女体山にあるロープウェーで登り、徒歩で男体山へ、頂上の「コマ展望台」のレストランで昼食、そして復路はケーブルカーで降り、筑波山神社にてクラス毎の記念写真撮影、という行程でした。
 当時、小学校では、学校行事の際のスナップ写真は、撮影された厖大な写真サンプルの中から欲しい写真(大抵は自分が写っている写真)を選択し、その枚数分だけ写真代を払うという仕組みでした。神社での記念写真は間違いなくプロのカメラマンが撮影していますが、各場所での児童のスナップ写真もかなりうまい具合に(ほぼ全ての児童がどこかで必ず写っているように計算されて)撮られているので、地元の写真屋さんのプロが同行して撮ったのかも知れません。押し入れにしまい込まれていたフォトアルバムには、この時の筑波山遠足の写真が十数枚ほど貼られていました。
【今回撮影した筑波山神社の石段】
 先週、筑波山神社を訪れたとき、本殿の手前にある急斜面の石段で、当時の記念写真が撮られたことを憶えていたので、同じような構図で自分も撮ってみました(Olympus E-P2で撮影)。
 こうして二つの写真を見比べてみると、非常に面白いのです。
 まず気づいたのは、1981年当時にはなかった、本殿の真鍮製の鐘。色ツヤからしてかなり新しいものと思われます。それから、石段上の欄干が比較的新しいこと。“筑波山神社”という赤い字が加えられており、より格調高く感じられます。
【1981年の遠足で撮影】
 石段の一つ一つはまったく当時のままのようで、最前段の石組の割れ具合もそのままです。当たり前の話ですが今の方が苔生していて、かなり古びた印象です。
 ところで、この画像からは判別できないと思いますが、記念写真の方の、つまり古い方の欄干には、“東京新吉原 山田喜久次郎”と記されています。欄干を寄進した人物――と受け取るべきその人物は一体誰なのか?
 調べたところ、それは明治から昭和にかけての浅草の興行師であることがわかりました。出身が茨城県の常陸、ということで合点がいきました。『鉄砲喜久一代記―明治・大正・昭和を駆け抜けた快男子』(油棚憲一著・福昌堂)という本があるようです。何か非常に面白い人物であるような気がします。

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