※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月28日付「『誰が為に』ということ」より)。
再び、ブログのエッセイ「伽藍の夏」との連関。
――臨時の若い女性の研修先生と仲良くなった私とその友人は、学校からさほど遠くない二三離れた村の、研修先生の住む農家に、ある日曜日に狙いを定めて、電車に乗って遊びに行ったのです。「家の近くの古墳を見せてあげるよ」という先生の言葉にときめいて。
先生にとっては、子供に向かって“うっかり”口にしてしまったその発言を、撤回するわけにはいかなかったのです。我々はなんの躊躇もなく、その村の隣町にまでやってきて、先生を電話で呼び出し、目印の場所まで軽トラックで迎えに来てもらう、ということを取り付けました。
研修先生の実家でしばし休憩した後、目的の古墳を見学するため、いわゆる古墳の“管理者”の方に連絡をしてもらい、少し歩いたところにある古墳の、鍵の掛かった門戸を開けてもらい、先生と一緒にそのなんとか古墳を見学したのでした。
私自身は内心、あまりに想像していた古墳よりも小さくてがっかりした…。何と言っても頭の中で描いていたのは、“STAMP ALBUM”と記された自前の切手コレクションのなかにある、「高松塚古墳」の婦人像、男子像、青竜の三種の切手を見て知った、あの高松塚のような極彩色とも言える壁画のある古墳。それに比べて目の前で見ている古墳は、奥行き3メートルもないような穴蔵で、壁画などどこにも見当たりませんでした。
それから数ヶ月後、研修先生が学校を去って行く時、最後のホームルームで大粒の涙を流した姿を見て、私は、自分が何を取り間違えていたかに気づきました。研修先生の、なけなしの、「誰が為に」という体当たり精神。私はこの思い出を、一生忘れまいと思ったのです。
今日付の朝日新聞朝刊の記事「記者有論」で編集委員の小滝ちひろさんは、【原発と高松塚 生かせなかった教訓】と題して、高松塚古墳の壁画劣化事故に対する文化庁とその関連組織の失敗、失策、そして福島原発事故の収束責任のある政府と東電の同じ失敗の教訓について述べています。
「誰が為に」「何を為すべきか」
いま高松塚の切手を眺めてみると、壁画の茶褐色の模様が妙に厳かに、切手そのものの美術的価値を高めているようにさえ見えますが、数年前に明らかになった最近の壁画画像を見ると、その価値すらも消え失せたかと思うくらい、劣化が著しく、これも人災の末路であるということに鳥肌が立ちます。
過誤もむしろ「人間的」だ、と自らの失敗や失策を雑駁にとらえて、諦念の態度をとる人間を、しばし見かけたりしますが、心が「誰が為に」「何を為すべきか」に向いていない人ほど、「非人間的」であるという自己矛盾に、その人は気づいていません。――研修先生があの時涙したのは、ちっぽけな心と大きな心との揺らぎの中で生じた、教え子の記憶を失いたくなかったという思いがあったからではないでしょうか。
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