大きな勘違いからの連動

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月15日付「大きな勘違いからの連動」より)。

 先月のブログで記した「垂乳」(たらちね)。この言葉を含んだ原爆関連の詩や俳句か何かを、どこかで耳にしたことがあったのではないか、という話。
 以前、NHKアーカイヴスの『耳鳴り――ある被爆者の記録』(1965年)というドキュメンタリーを観た際、歌集『さんげ』を書いた正田篠枝さんがそういう言葉を用いていたような、と頭に残っていたので、もう一度映像を散見したところ、どうも私の記憶違いだったようです。
 正岡子規の、
《たらちねの花見の留守や時計見る》
 というのと記憶が混同していたのではないかと思いますが、正田篠枝さんの方も、
《ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめき行く》
 というのがあるので、いずれにしても「乳房」のイメージが記憶を惑わしたのかも知れません。
 ジョイスの『若い藝術家の肖像』の方は一応読了し、気分的には一段落しました。9月下旬から読み出して2ヶ月半。明晰に読んだ箇所もあれば、体調不良時にふらふらと目を移動させただけの箇所もあって、読み終えたと言えるかどうか。
 ついこの間、岩波の『図書』10月号「和歌はなぜ『輸送』がきかないか」(川本皓嗣著)を読んで、要するに和歌の言葉から発せられる品性や情趣(文中では「調べ」と解釈)は他言語に翻訳し得ないという難問が、韻律性を重んじる象徴主義に類する問題と絡まって、和歌の特殊性に私は目から鱗が落ちました。
 何故私が川本氏の随筆に注目したかというと、“韻律”について述べていたから。
【赤字で“無韻詩”とメモされた本】
 中古で入手した『若い藝術家の肖像』(講談社文庫)の解説(訳者・丸谷才一著「『若い芸術家の肖像』について」)のある部分に、前所有者が書き込んだと思われる赤い字の落書き――私は最初に大きな勘違いをして“無韻律”と書いてあると思い込んだ――があって、川本氏の随筆に私が反応した、ということです。
 つまりは、韻律を踏まないで綴る文体など、日本語訳にはできないわけだし、読んでいてもそうなっていないわけだから、原文を読まない限り、“無韻律”の文体がどうなっているか、わからないなあと思っていました。少なくとも原文の日本語訳は完全なる非可逆であると。
 しかし読了後、ようやく私自身の大きな勘違いに気がついた。
 “Blank Verse”=“無韻詩”。
《ハリー・レヴィンの説によれば…》という丸谷先生の妙な言い回しによろめきつつ、確かに何故第五章の最後が日記文体なのか俄に理解しがたいのですが、そこが“無韻詩”であることはわかるのです。言語の持つ韻律の美が素直に翻訳できないことの難問に比べて、“無韻詩”は翻訳可能。丸谷先生の訳も素直にそうなっています。

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