オホーツクに消ゆ〈終〉

 前回からの続き。
 網走刑務所の受刑者が製作した「ニポポ人形」を手に取ってみる。
 これが『オホーツクに消ゆ』に登場したあのニポポ人形だという感動以外に、実に不思議な人形だと、素朴に思った。
 ニポポとは、アイヌ語の“ニィポポ”が語源で「小さな木の子ども」の意らしい。一種のお守りである。私が買ったニポポ人形は、高さ14.5cmほどの小ぶりなもので、手に触れたときの感触が実に柔らかく、触り心地がいい。この柔らかとした感触は、まさに「小さな木の子ども」を想起させてくれる。わずかに艶のあるこの木彫り人形の木材は、落葉高木の槐(えんじゅ)である。
 アイヌに伝わる木彫り人形の民芸品は夫婦のものが多い。中にはこけし風のものもある。造形は様々だが、一方で、東北に伝わるこけしが童女を指しているように、網走刑務所名産として有名な“夫婦ではない”ニポポ人形も、やはり童女かと思われる。いつの間にか夫婦のニポポ人形よりも、こちらの童女のニポポ人形の方が浸透しているのではないかという気がする。それも『オホーツクに消ゆ』の反響だろうか。

《ニポポ人形が涙するとき またひとつ、死体が浮かんだ……》
 このキャッチコピーの謎めいた衝撃は忘れることができない。次々と起こる殺人事件と、まだ見ぬニポポ人形とがどのように結びつけられるのか。そもそもニポポ人形とはいったい何なのか。ゲームとしての面白さを飛び越えた文学的空想の領域である。
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 私が当初プレイしたPC-6001版の登場人物の設定及びストーリー展開(PC-8801版も含む)と、1987年以降に発売されたファミコン版では人物の設定及びストーリー展開が違う。後者はストーリーの厳密さよりもゲーム性を重んじたための改訂版だと思われるが、その結果、当初のストーリーに馴染んだ一個人としては、納得のいかない気分にもさせられた。率直に言って、後者はもともとの『オホーツクに消ゆ』のディテールを大幅に損なっている。例えば、
①改訂版では第4の殺人事件に留まり、和琴温泉での第5の殺人事件が起きない。
②改訂版では摩周湖及びカムイッシュの島が単なる風景となってしまい、事件とはまったく関係がなくなり、真紀子が摩周湖にいるという伏線が張られた必然がない。
③改訂版では何故か夕張炭鉱が登場する。
 そして最もディテールを損なってしまったのは、野村真紀子の友人、中山めぐみの登場である。失恋旅行で真紀子を連れて北海道へやってきたというくだりは、真紀子自身の、その父親の復讐心を思いとどまらせる不幸な葛藤の旅情をまったく掻き消してしまった。単に真紀子は旅をしているのではない。愛する父親を切なく追い求める旅。湖の向こうを見つめる瞳。どんなに親しくとも、中山めぐみとの旅の道連れは心情的にあり得ないのだ。
 こうした改悪を経ても尚、変わらなかったのは、ニポポ人形の扱い方であった。ニポポ人形が涙する――。それは死者への鎮魂あるいは守り神としての意味が表されていることは紛れもなく、道東の神秘的な土地柄が、アイヌの風習や文化と根深く関わっていることを示唆した重要なモチーフとなっている。
 作品としての『オホーツクに消ゆ』を思い出すたび、道東への旅を新たに喚起される。あまりにも衝撃的であったこの作品の余韻は、当分消えそうもない。

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