非常階段クラブ

【山下達郎アルバム『MELODIES』】
 自己と《音楽》とを結びつける様々な接点や事柄を、できるだけ過去の《記憶》の引き出しから《記録》へと変換してゆきたい。そういう欲求にたびたび駆られる。あるいはそれは他愛もない妄念に過ぎないのかも知れないが。
 私の中学校時代、いわゆる部活動とは別の、週に一度のクラブ活動というのがあった。必ずどこかのクラブに属さなければならない言わば必須活動だ。ところがあいにく、中学3年の頃私はひどく怠惰で――思春期の曲がり角のせいもあるが――参加したいと思うクラブが一つも無かったから、その時間帯はぶらぶらと校内をほっつき歩き、人目の付かない屋外の非常階段で時間をやり過ごすということをしていた。一応、所属先のクラブは“軽音楽クラブ”となっていた。が、一度もその教室に入ったことはない。
 そうこうしているうちに、同じクラスのK君が、私の気儘な“クラブ活動”に参加というか賛同してくれた。彼は美術クラブ所属で、最初こそ真面目にその教室へ行っていたが中途でクラブをほっぽらかし――というより私の状態を知って意を決し――我々二人は流れるままに約半年間、こっそりと非常階段という開けっぴろげの無機質な教室に通った。無論そこには顧問など誰もおらず、非常階段から見える吹き抜けの景色を見ながら、あるいは雨風に吹かれながら、ああでもないこうでもないと、我々二人にとっては、日頃の学校生活の鬱憤をぶちまける格別な時間帯を得ることができた。
 思えばK君は中学2年の時、母親を病気で亡くし、その期の前後はやや情緒不安になったりして、日頃明るかった彼が口ごもることがたびたびあった。彼もまた思春期の曲がり角であった。それでも1年が経つと、表向きはすっかり元の彼に戻り、平安な日々を過ごしていた。
 K君との非常階段クラブは、密やかにも熱気のあるおしゃべりのひとときであった。あっという間に過ぎる小一時間を毎週体験した。そうして半年が過ぎ、そろそろどこかのクラブに、二人で入ろうかという話になった。私とK君にとって、どこのクラブに所属し直すかということは大した問題ではなかった。
 結局のところ、彼が所属していた美術クラブへ、私も参加することになったのだが、その後の半年間は屋外へ赴いて風景を写生したりして、非常階段クラブと同じくらい楽しい時間を過ごすことができた。
【アルバム背面。達郎さんが若い。】
 こんなふうにちっとも《音楽》とは関係のない想い出なのだが、ある日K君が学校に持ってきた1枚のLPレコードが、私の目に焼き付いてしまった。焼き付いたのはジャケットではなく、“TATSURO YAMASHITA”のロゴだ。
 それは間違いなく山下達郎氏のアルバムレコードだったのだが、どのアルバムだったか、実を言うとはっきり思い出せない。後年、このことをずっと考えていたのだが、昭和62年(1987年)という時代を考慮すると、どうもそれは『MELODIES』だったような気がする。
 彼が何故突然、山下達郎氏のレコードを学校に持ってきたのか、よく分からない。だが私の心の中で、それは思いの外濃厚な記憶となった。むしろ私自身の音楽鑑賞の嗜好としては、中学校時代を境にして、日本のポピュラー音楽からかなり遠ざかっていった。ただ、記憶の中に、“TATSURO YAMASHITA”だけはしっかりと刻み込まれた。達郎氏の曲を聴くと、K君を思い出す。

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