『渡良瀬』とわたし

 拙劣な文章で何度も捨てようかと思ったことのある自分の高校時代の「日記」を、読み返してみた。天皇重体のニュースが連日続いた昭和63年から2年。その一冊の記録は高校3年時の日々の学校生活を、男子高校生らしくぶっきらぼうに綴っていた。

 平成2年7月30日。母校の工業高校に指揮され、ガス溶接の講習及び実地試験のため、茨城県西部にある配電盤茨城団地を訪れた。この試験の日程については日記を読み返して思い出したのだが、1日目が講習、翌日の2日目に実地での技能試験、そして明くる月の21日にアーク溶接の講習、22日に技能試験となっていた。
 「日記」では、この4日間の記述はたった数行ほどである。むしろ帰宅してからステレオで聴いた、マイケル・ジャクソンが歌うスティービー・ワンダーの曲「I CAN’T HELP IT」に関する記述の方が長い。
【佐伯一麦著『渡良瀬』(岩波書店)】
 ともかく、何故その溶接試験に関する短い記述を日記から引き出したかというと、佐伯一麦氏の長編小説『渡良瀬』(岩波書店)を読んだからである。この小説の主たる現場が、当時工業高校生が“ハイデンバン”と称していたその配電盤茨城団地なのだ。
 ページ数で言えば370ページを超えるこの長編の、ほとんどの場面は、配電盤製造のための電気配線工事の描写であり、その電気部品と主人公の手先の動きが克明に記されていてまったく驚かされる。それはいたる描写においても同様で、天皇陛下重体に伴う宮内庁と政府の刻々の発表も、実に詳細を伝えている。
 佐伯氏はこの『渡良瀬』を《さしずめ私にとっての“二十代の自画像”》であると、吐露している(岩波書店PR誌『図書』より佐伯一麦著「二十代の自画像」より)。つまり私小説である。
 この長編小説がどの程度のさじ加減による私小説であるかは、私にとってはあまり意味をもたない。
 場合によっては、それが完全なるフィクションであっても構わなかった。これまで多くの電気工を輩出しているであろう、母校の工業高校の卒業生の一人である私、その私自身が二十数年を経て自らの記憶を甦らせつつ、“配電盤”という工業団地に焦点を置いた小説を読んだこと、このこと自体に感慨深いものがあった。
 配電盤茨城団地。配電盤製造に関わる企業が複数、工業協同組合として集合している大規模な区画施設である。
 今も道路に面した“通産省指定”の標札のある正門の門構えは、変わっていない。あの時、夏休みの最中に試験を受けるということであまり有意義に感じなかった私は、やや消極的な態度で試験を受けたことを憶えている。講習の際、睡魔に襲われ、その意欲の無さは決して褒められた態度ではないが、なんとか2つの免許を取得することはできた。
 特に日記に記されていたのは、7月31日。つまりガス溶接の実地試験があった日。講師だった職員の方が急に体調を崩し、救急車に運ばれたこと云々。淡々とそのことが書かれているだけで、無論、佐伯氏のようなこまやかな描写など、ない。
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 渡良瀬遊水池には、以前写真を撮りに行ったことがあるが、奥深くには入り込んだことはない。個人的にこの場所に対しては妙な畏怖の念がある。地理的に言えば、配電盤から遊水池まではかなり遠く、その地から遊水池の野焼きの煙景を、見ることはできるであろうかと、私はふと思った。
 高校時代、何度もこの配電盤に面した道路を帰路に利用した。工業生にとってこの団地は聖地のような所で、多くの者がこういう所に散らばっていくのだということを想像したりした。時折、自分たちの独特の人生観があることを、実生活や社会での喜怒哀楽を経験するたびに、感じるのである。
 3月。春のうらら。鮭延寺の細道の角で、梅の紅い花片が散っていた。ここはいつも密やかな細道である。熊沢蕃山の墓がこの寺に、あるらしい。思案橋を渡って誰もいないこの細道を抜けようとする時、私が私自身になって、ときめきやら閃きやらを、発見するのであった。

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