ふらふら人恋しい写真の具象論

【モノクロームの旅は浅草から始まった…】
 私がまだ20代後半だった頃、世の中のすべての《音楽》がザラザラとした美しくないもののように感じられた、比較的長い“一時”があった。
 誤解を恐れずに言えば、安物の機材ばかり揃えてしまうと、例えばピアノ音源の和音が濁って聴こえる。ちっとも美しくない。安物のケーブルを通って、世の中のすべての《音》が、汚らしいものなのではないか、と感じられると、もう止まらない。
 自分の声の出し方も分からなくなった…。自分と《音楽》との距離も遠ざかってゆく…。安物の機材のせい、その安物によるデジタル・レコーディングのせい、と安物、安物…とネガティブな螺旋階段を彷徨い下降する。
 安物のせい? いやしかし、それは精神的なストレスのせい、であろう。そんなふうに妥当な自己分析ができていたら、あの頃に感じていたすべてのことは、まったく結果が異なっていたに違いない。
 ともあれ、そういう日常での「負の循環」が続く中、好きであったカメラを持ち出して、街の中へ繰り出した瞬間がたまらなかった。これはもう精神的に解放された気分となった。
 最初に買ったCanonの一眼レフ(EOS Kiss)からLEICAのコンパクトカメラ「minilux」(レンズはSUMMARIT F2.4/40mm)に替えて、いよいよそのガス抜き解放の度合いが増して、全国のいろいろな観光地や街々を散策した。フィルムはFUJIFILMのNEOPAN 400 PRESTO(モノクロームのネガ)が好きだった。
 普段は24枚撮りなのに、気分が高揚すると奮発して36枚撮りを数本買う。写真を撮るために、事前にネガフィルムをカメラ店で買っておく準備が必要だった時代。冷蔵庫に保管していたネオパンをカメラに入れ、いざ街に繰り出す。その時の高揚感はたまらない――。
*
 これらはいったい、いつ頃撮られた写真であろうか。
 無論、自ら撮影したminilux+NEOPANによる写真である。整頓してしまってあるネガのストックのデータを見なければ、もう思い出せなくなってきた。
 場所は分かっている。浅草浅草寺。それから同潤会の上野下アパート。
 ネガのデータを調べてみて判明した。2002年10月。フィルムはNEOPAN 100 ACROS。
【浅草。男と女。】
 その頃はまだ、なんとなくカメラの扱いというか被写体選びというのが、雑であった。つまり、《具象》としての被写体をとらえることが心理的にできなかった。
 その頃、街を散策してパシャパシャとシャッターを押している瞬間の自身の心理は、明確な《具象》を選んでいるのではなく、あくまで全体の幾何学的な《抽象》を選ぶ――すなわち直線や曲線、構図的な美観、あとは光と陰である。モノクローム写真はそれがとても美しくなる抽象画に思えたから、そういうモノクロームのフィルムを好んで使っていたのだ。
 《具象》をとらえようとしていないから、コンマ数秒の一瞬、歩いていて通り過ぎるその一瞬、これだと感じる《抽象》を頭でトリミングして、シャッターを切っている。
 浅草での、とある日本人形店の店内を写した瞬間もそうであった。そこに居る人物だとかには注視しておらず、あくまで構図と光の具合だけでシャッターを切った。だから現像したあとで、ああこんな表情の人達が写っていたのか、と気づくことがしばしばだ。
 今――これらの写真をじっくりと眺めてみる。もはやあの頃のように、これらを単なる抽象画として見ることは、心理的にできなくなっている。《具象》としての写真にコンバートして見てしまう。へんてこなことである。
 …熟年の男女が、子供らのために日本人形を買い求めようとしている。いや、彼らは子供らのためというのが主目的ではなく、やや愛欲の薄らいだ、男女の仄かなるひとときを悦楽するのが目的であって、そのためにこの老舗で買い物をしようとしている…。
【上野下の同潤会アパート】
 そんなふうな物語を、1枚の写真から勝手に想像し、私はその謎めいた一瞬をとらえたのだという摩訶不思議な気分に浸る。あるいはもっと、この同潤会のアパートの写真から、今は無き建物の、在りし日の午後の光を慕って、その住処の内側にいる老人の、斑の皮膚のぬくもりを得ようとする。
 こんなエキセントリックな想像が、あの当時すらすらと思い描けていたならば、和音の濁りなど聴こえなかったのではないか。そして自身の声の通り具合を即座に感知して、いくつもの曲の歌を歌ったのではないか、と推測する。
 そこに在った人物も建物も、もはやそこには無い。現実としては「無」である。灰色の、たった一つの印画の中に、その瞬間の《具象》が鏤められる。無いがゆえの仮構の《具象》。だから人恋しい。そうして私はまた、街へ繰り出す。
 私は自らつくり出す音楽に対して、《抽象》ではない、人間物語としての《具象》を求めようとしていることを、今は実感する。時折私は《具象》を嫌って《抽象》に走るが、音の集合体である《音楽》は写真と同様、突き詰めれば《具象》でしかないことを、明白に肯定して表現するしかないのである。

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