組み体操ってなんじゃらほい?

【卒業アルバムで思い出す「組み体操」】
 私が30年前(1987年)に卒業した中学校の、“卒業アルバム”を引っ張り出してみた。アルバムの最後の見返しの部分に、前年の秋の運動会でおこなった「組み体操」のモノクロ写真がある。懐かしい写真だ。その中央――俄に信じがたい高さに、人が立っている。いわゆる人間タワーである。てっぺんの高さを単純に計算してみたのだ。タワーは4段構造となっているから、中学生の身長を165センチと考えてその4倍、660センチ。
 え、6メートルを超えて7メートル近い? タワーの周囲にいる地上の先生ら5人が、確かに、遥か上を見上げている。これは凄い。トラックの外側にいる生徒や大人達がほとんど、この7メートル近い人間タワーに釘付けなのだから、運動会の演目としては花形。最大級の見せ場、ハイライトだ。だがこの後、てっぺんにいる生徒は、突如、地面に落下するのである。
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 先週14日の朝日新聞朝刊の1面で、「組み体操中止 中学3割」の見出しの記事を読んだ。ここ数年しばらく、たびたびメディアで取り上げられている「組み体操」の事故問題に鑑みて、同新聞は全国から74市区の教委にアンケートをおこなった。
 その結果。教委が「組み体操」の実施を把握していた学校は小学校が57市区、中学校が54市区で、2016年度に「組み体操」を実施した小中学校の数は、前年と比較すると小学校で2割減り、中学校で3割減ったという。この「組み体操」によるけがの報告件数も、前年と比較するとおおむね減っているようだ。
【朝日新聞朝刊8月14日付1面の記事】
 それは言い換えれば、ここに来てようやく、何十年と続いてきた「組み体操」の改善が求められてけがが減り始めた一歩――に過ぎない。同新聞の別の記事を見たら、「組み体操」による事故の内訳がグラフ化されていて興味深かった。2015年度の事故の件数は8000件で、多い順に、挫傷・打撲が2922件、骨折が2157件、ねんざが2132件。けがをした「組み体操」の技で多いのは、タワー、倒立、ピラミッド、肩車という順。これらの統計データは日本スポーツ振興センターによるものである。
 また新聞記事では、タワーとピラミッドの正しい組み方なるイラスト(日本体育大・三宅良輔監修)が掲載されていた。各学校の裁量で、「組み体操」を中止しない場合でも、タワーや人間ピラミッドといった大技をやめたり高さを制限したり、別の集団演技にしたり、といった教育現場の働きかけや取り組みがある。安全な「組み体操」の在り方が、全国で模索されているようだ。
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 「組み体操」の定義や歴史について、ほんの少し調べてみたのだが、世界のあちこちで、それこそ紀元前に遡って、いわゆる動的な集団演技、集団演舞といったものが盛んにおこなわれてきたらしく、しばし軍事教練的な意味合いでおこなわれてきた場合が多いと思う。日本では、戦前の頃からこの手の体操が広められている。現在においてはその定義自体難しく、ダンスやマスゲームとの複合的な要素もあり、そのうち、日本の学校の運動会の場で連綿とおこなってきた人間タワー、人間ピラミッド、扇といった集団演技は、外国の学校現場では例がないらしい。これは日本独自で広まった「組み体操」の歴史であろうかと思われる。
 私が卒業した高校でも、体育の授業の一環で「組み体操」の集団演技の練習と本番という形態はあった。上半身裸、裸足の状態は「組み体操」の定番のスタイルであり、これは見栄え云々ではなく安全対策のためである。ともかく高校の時の「組み体操」はごく軽いもので、ペアになって肩車をするといったたぐいで大したことはなかった。終わって一体感を感じたとか、集団的役割をそれで学んだ、という実感は当時まったくない。
 しかし例の、中学3年の運動会でおこなった「組み体操」というのは、規模的にも大きく、写真には含まれていないが人間ピラミッドもやった記憶があり、見た目としても壮大な演目であった。練習という点でそれなりに苦労したことも微かに憶えているが、本来なら本番が終わって一体感・連帯感・達成感といったものが込み上げてきてもおかしくはなかった。しかしそこに事故が起きると、そうした感情は起こらず一気にトーンダウンする。あの時も確かに、そうだったのだ。
 「組み体操」は運動会のクライマックスであったし、それが事故で終わってバタバタとした冷めた雰囲気に包まれ、あっけなく運動会の面影は去っていった。あの頃、高校入試というのはそれぞれの大きな闘いだったのだ。やがて私はその生徒が包帯姿で学校に通っている姿を見るにつけ、ある種の痛ましさを感じた。彼はなにゆえに、そこでけがをしなければならなかったか。自他のミスや失敗といった次元の話ではなく、もっと大きなものの痛ましさだ。
 卒業アルバムを開くと、いつもそのことを思い出す。こどもたちのために、大人達の、悪夢を決して生まない「最善の努力」が必要である。何事も――。

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