【ベルトルッチ監督の映画『ドリーマーズ』】 |
一つの映画を語る時、溢れんばかりに「映像」と「言語」と「音」の記憶が明滅し、際限がなく収まりがつかない、ということがしばしばある。思考から思索へ、思索はさらに別の思索へと裾野を広げ、その「映像」と「言語」と「音」の世界を駆け巡った挙げ句、グラスの底に沈殿した奇妙な液体の何たるかについて、思索への旅はとどまることを知らない。
映画とは、そういうものである。映画を観るとはすなわち、野生のフグを食らうかの如く、非常に危険な行為であって、その危険と隣り合わせの内心において、執念深く用意周到に、毒のしびれに耐えつつも、すべての部位を食らうことに深い情趣がある。体験的に、我が身の神経はすべて視覚と聴覚にそそがれる。その瞬間こそ、映画体験の醍醐味である。毒を食らうかも知れぬ苦痛の先に、無垢なる「光」が存在する。映画とは、その「光」への、盲目的な思索の旅である。
昨今、陰鬱な大人の色恋沙汰映画『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris)で“泥酔”した私は、その先の「光」を浴することになる。言わばそれは、『ラストタンゴ・イン・パリ』の大いなるオマージュであり暗唱――。同じベルナルド・ベルトルッチ監督の2003年の映画『ドリーマーズ』(The Dreamers)。今回語るのはこの映画である。
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私が『ドリーマーズ』を久々に観たのは、先月の半ばのこと。「フランス デモ連帯に影」という朝日新聞の報道記事を読んだのが5月4日。すなわちこの二つから想起されるのは、パリの五月革命(1968年5月、パリで起きた反体制のゼネスト及び学生運動。五月危機とも称される)であり、今年はちょうど五月革命から50年に当たる。
そう、私はこの映画を思い出したのだった。『ドリーマーズ』は、パリの五月革命が背景となっているベルトルッチらしい映画狂の傑作。描き出しているのは、荒々しい騒動の只中の、ある若者達の、偏愛とセックスの情事――。
なんと言ってもまず、この映画のトップ・シークェンスに刮目せよと言いたい。高らかなギター音で始まるジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」。エッフェル塔の鉄骨をバックにクレジット・ロール。そのエッフェル塔の手前に、主人公の若者――サンディエゴから来た20歳のアメリカ人留学生青年――マシュー(マイケル・ピット)がスーツ姿でフレーム・インする。そしてセーヌ川に架かるイエナ橋を渡り歩いていくシーン。
向かうは、対面するトロカデロ広場の彼方。やがてデモの集団の中にマシューは吸い込まれていく。周囲は、“LANGLOIS”の文字の横断幕やプラカード。“Musée du Cinéma”の創設者アンリ・ラングロワを讃えるデモ――いや、そうではなく、シネマテーク・フランセーズ(Cinémathèque française)の出資者である政府に反感を買われ更迭されてしまったラングロワ、という状況に対し、知識人や若者らが復職を要求する抗議活動をおこなった。いわゆる“シネマテーク復権”デモ――にマシューが遭遇。
ここからマシューは、同じ学生で“映画狂”という共通の趣味を持つ双子の姉弟イザベルとテオ(エヴァ・グリーン、ルイ・ガレル)と出会い、今映画の本筋に没入していくことになるのだが、見事なくらい、『ラストタンゴ・イン・パリ』での、初老に差し掛かった男(演じたのはマーロン・ブランド)の顛末を逆さまにして、ベルトルッチは、その旧作をオマージュし暗唱し、若者達の構図に置き換えてみせている。むろんパリという街で。そうした飽くなき映画への態度や探求心=これはフィルム芸術における“気概なる冒険”とでも言いたくなるのだけれど、私はベルトルッチ・ファンとして、この映画『ドリーマーズ』を様々な観点から高く評価したい。ここでの“Dreamers”とは、ベルトルッチ自身が、映画を愛する者達への夢と希望を献呈する、という意味もあろうかと思われる。
少々蛇足になるが、何より私がこの映画の中で好きなのは、パリの街の光景である。アイルランド島が好きで、ロンドンの街が好きで、スペインのマドリードが好きで、トーキョーの街も好き。といった具合にどれもこれも私の感覚は漠然としていて抽象的で、大雑把で、はっきりとした理由がない。しかし、パリという街が、確かに好きである。だから、パリを描いた映画は、基本的にどれも好きなのだ。
私の中でパリというのは、エディット・ピアフのシャンソンであり、小洒落た喫茶店であり、路地のイメージが濃厚である。ベンヤミンの『パサージュ論』、あるいはかの時代のパリを写した写真家アジェである。どこか陰鬱な灰色の気配のあるアジェのパリの写真は、『ラストタンゴ・イン・パリ』の印象と重ね合わせることができ、こうした街の中に溶け込んでいる人びとの日常、とりわけベルトルッチ監督が映画という手段で必死にそれを描こうとして已まないのが、「いずれかの路地裏に潜んでいるかのような秘密の情事」なのであり、私はそれを目撃するストレンジャーだ。とても刺戟的な、時に官能的な鑑賞ともなる。
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『ラストタンゴ・イン・パリ』の印象は、暗い雰囲気の中で、まったくの「赤い血」がながされていたのに対し、この『ドリーマーズ』では、「白い血」の印象だ。
白は、経験に乏しく、野暮である様の象徴であり、その白――革命という渇いた「血」の反証と、心許ない純潔の女の「血」とのきわどい対照――を、若者3人が浸かるバスタブのシーンのシャボンに反映させている。そうして冷淡に、かつ邪悪に、しかしながら明るいパッションでパリの郊外の、とあるアパートメントの室内にて、彼らの《秘密の遊戯》が展開される。ストレンジャーである私は、その戯れを、一つ一つ脳裏に刻んで鑑賞していくことになる。
双子の姉弟の父親(ロバン・ヌルーチ)は作家(詩人)で、食卓に招待されたマシューとその父親が対話する場面が、実に神妙で含蓄に富んで興味深い。どういうわけか目の前のテーブル・クロスの幾何学的な模様に端を発したある種の“推論”に取り憑かれたマシューは食事中、父親の話も上の空で、父親がそれを不思議に思い注意すると、マシューはその幾何学的な謎めいた話を興奮しながらまくし立てるのだ。父親は内心、マシューの態度に困惑する。若い奴はどいつもこいつもこんなのばかりだ、と辟易として話はまとまりがつかなくなり、今度は弟のテオと父親が対峙する。愚直な学生運動に身を投じたがる若者を肯定しないコンサバティブな父の考えに、テオは反撥する。
家族が心と体を向き合わせざるを得ない「食卓」という日常での局面の、リバタリアニズムの価値観の相違で葛藤する彼らの問題、この逆説的に深い「家族愛」も、1968年のパリらしい光景の一つと考えられないだろうか。そうした意味で実質的にあの学生運動を支援していたのは、実はその若者らの親達なのだろう。コンサバティブな精神の中にも、抗えない自由主義がある。
マシューが泊まったその日の夜、偶然彼が目にしたのは、同じ部屋の一つのベッドで、静かに寝入る全裸の姉弟であった。マシューは動揺する。彼らは性的なタブーを犯している。アブノーマルな姉弟なのかと…。
父親と母親が不在となったアパートメントは、イザベルとテオ、そしてマシューの3人の若者の開放的な共同生活の場となる。が、とてもミニマムな期間だ。彼らが過ごす部屋には、毛沢東のプロパガンダ的ポスターが張られている。彼らは日々、映画の話題に夢中になる。
そういえばこの映画では、たびたび名画の場面が挿入される。グレタ・ガルボの「クリスチナ女王」(Queen Christina)、ディートリッヒ、チャップリンとキートン、フレッド・アステア…。映画狂が講じた遊びの、映画のタイトルを当てるクイズが彼らの中ではやり出す。このちょっとした日常の瑣末のクイズの罰ゲームから転じて、羽目を外した性の解放も収まりがつかなくなっていく。
イザベルとテオのアブノーマルな関係、しかしそれは彼ら姉弟にとってネオテニーの様相をはらんだ「性のコンサバティブ」な状態にあり、父親に毒づいたテオの理屈からは矛盾する。罰ゲームで調子に乗ったマシューとイザベルが肉体関係となり、瓢箪から駒が出て惹かれ合うようになると、ジェラシーを感じるテオは心持ち蚊帳の外となる。だが、イザベルは決して弟の存在を見捨てることなく、ネオテニーな関係は続けられる。むしろ逆に繭玉の中の二人は幼心のまま強固となる。こんな二人から振り落とされぬよう必死にしがみつくのがマシューの方で、マシューはイザベルに対してまったくもって真剣な覚悟だ。
こうしてもともと《秘密の遊戯》からもたらされた3人の若者は、それぞれ混沌とした心の揺れ動きの傷痕を残したまま、悲劇的な運命の末路へと突き進んでいく。それを最後まで見届けた者は、誰もいない――。
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1968年のパリの街。その街で小さくうごめく若者達の心と体。観る者によって、この彼らのうごめきは、三者三様異なって映るに違いない。
私は極私的なパリへの憧れと、ベルトルッチ監督への尊敬と、そしてこの映画の主役達、とりわけ自分と同じ誕生日という不思議な偶然で一回り年下のルイ・ガレル(Louis Garrel)の、ニヒルで静かな演技に対しては、関心が強い。彼の父は映画監督のフィリップ・ガレルで、ルイ・ガレルが主演する他の映画もまた、パリの街が背景となっているフィルム・アート的な作品が多く、私は好んで観たりする。
『ドリーマーズ』は五月革命が起こるパリの、若者の愛の沙汰をとらえた映画狂映画である。さあもう一度、ジミ・ヘンドリックスの「Third Stone From The Sun」を聴こう。私のエディット・ピアフが呆気にとられて塗り替えられていくのだ。
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