世界の縁側―幻のNetsound

【月刊誌『Sound & Recording Magazine』のコラム「世界の縁側」(1996年)】
 CubaseもLogicもPerformerもOPCODEのVisionも、当然ながらPro Tools IIIも所有していなかった20代の頃の私。音楽とレコーディングに関連して、当たり前のように貪り読んでいた本が、リットーミュージックの月刊誌『Sound & Recording Magazine』。当時その雑誌で連載されていた、コンピュータ関連のインターフェース&ソフトウェアの記事を、ほとんど読み飛ばすしかなかったのは、至極当然と言えば当然であった。
 しかしながら、本を隅から隅まで貪り読みたい欲求に駆られていたにもかかわらず、コンピュータ関連の記事のみを読み飛ばすことは、多少の嫉妬心を覚えた。しかし所有していないものはしていないのだから、仮に読んでも何のことか分からず、得てして無害であった。
 そうしたソフトウェアの話の、私にとって難解だった“オフライン”の世界の、その遥か外側には、さらにWWW=World Wide Webという“オンライン”の茫々たる世界があって、それこそ理解不能の極致――意味不明、これって日本語なのか英語なのか――といった心に留めようのない憤懣とした不完全燃焼の読後感を日々やり過ごし、結局のところ、平易で明瞭なる作業――ちまちまと使用済みのカセットテープを両手に抱えてキャビネットに移し整理し、毎度毎度、MTRの磁気ヘッドとキャプスタンとピンチローラーを、アルコールと綿棒で満遍なく掃除する――。この日課、絶対に欠かせなかった。
 話がたいへん込み入ってしまった。ともかく、今なお私が、その頃の90年代の『Sound & Recording Magazine』という雑誌を、何冊か所有しているコレクション・アイテムの中からたびたび読み返す理由は、単純明快。古いシンセや音源モジュールのスペック情報を得るためであり、必要ならば中古品を購入するためであった。
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 中学生の時からずっと愛読し続けて已まない貴誌『Sound & Recording Magazine』は少なくともこの30年、特に90年代におけるPCM音源やらマルチ・プロセッサーの拡充、ハードディスク・レコーダーといった新進気鋭のデジタル・ツールの“黒船来航”という革命的情勢を乗り越え、その何たるかを検閲し、導入奮起し、鼓舞し、未来志向でデジタル派を促進させ、それを大いに啓蒙し、レコーディング業界の革新を迫ったという点において、21世紀に向けられたエンジニアやクリエイターの卵達は、結果的に己のメンタリティをタフに鍛え上げることができたはずである。容易ならざる90年代以降のデジタル・レコーディングの新思潮というのは、アナログ派とのハイブリッドを強いられ、どちらにも深い造詣がなければならない変異な状況と化したのだ。私も世代的に言うと、その幸不幸の恩恵を受けた一人であった。
 読み返してそれを憮然と振り返ることは、決して意味のないことではないだろう。温故知新である。一見、21世紀的でまったくの“斬新”と思えることをいま発見したとして、ちょっと過去の貴誌に立ち返って読んでみると、既にそれがごく普通なこととして記されてあったりするようなことは、けっこう少なくない。何でもかんでも〈これってすごくね?〉と驚愕して讃辞する前に、過去をよく見てみなさい。もう既にそれは誰かがやっているから――。むしろ、『Sound & Recording Magazine』という本の楽しみ方は、その反芻の味わいにこそあるのではないかと思うこともある。
 故に、一つ気になることがある。近年の貴誌は、ややワールドワイドな音楽論から逸脱し、縮小し、世界を見渡し哲学する度量が薄れてきてはいないか。日本人の、それもごく狭い東京や大阪のスタジオの、こぢんまりとした見聞に終止していないだろうか。やや近年は、記事の内容が、堅固真面目すぎる向きがある。昔はもっと、世界中に散らばっている業界の内と外の余話だとか、脱線系やジョーク系のコラムやインタビュー記事が散見できたように思われるが、いかがでしょう。
 オフトークやオフレコのたぐい。これこそが、音楽に笑いと休息を含めて必要なのだ。その粋なスピリッツを片隅に置いて、ミュージシャンやアーティストらの“くだらない話”を抽出してみようじゃないか。なにこのミュージシャン、こんなくだらないこと言うのね。でも、けっこう的を射ているじゃない。真実が感じられるわ――。言葉の活力を拾い上げること。それを怠ること勿れ。通り一遍の情報を信じるな――。ミュージシャンもアーティストも、時に嘘を吐くから――。なんていうことをじりじりと思うのである。
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 またまた話が込み入ってしまったことをお詫びする。いったい今回は何の話だい? そうそう、今回、たまたま90年代の古い『Sound & Recording Magazine』を読んでいて、懐かしくも興味深いコラムを発見したのだった。
 発見したと言っても、既に私はそのコラムを何十回となく過去に見ている。見ていても中身を読んでいなかったのだ。そういうふうに読み飛ばしてしまっていたコラムが、いくつかある。
 そのコラムを読んだのはこれが初めてである。1996年12月号(表紙は映画『エビータ』に出演したマドンナ)の連載コラム「世界の縁側」。黎明期のインターネットにおける音楽関連のトピックが主な内容で、執筆者は作曲家で音楽プロデューサーの尾島由郎氏。
 同じことを繰り返すけれども、96年のあの頃は、私はWWWの世界がまったく分からなかったのだ。だからこれを読み飛ばす以外なかった。しかし、今では充分読み下しできる。読んでみれば、実に興味深い内容となっていることに気づいた。
【当時ネット上に存在した「Netsound」のWWWページ】
 「世界の縁側」第10回「NetSound!!」。尾島氏が述べる前段の話は、今となっては誰しも経験したことのある、ありふれたエピソードとなってしまった。当時はこれが、真新しい出来事のように感じられたに違いないのだが、愛用の音源モジュールが“battery level low”と警告を発したので、インターネットのメーリングリストでその事例を調べ上げ、“The battery is very easy to replece and very cheap (CR-2032 model)”という文言を発見。その型番のリチウム電池を深夜のコンビニに買いに行った、本当にインターネットってなんて便利なのだろう、という話。
 ところで、ネットにまつわる話の本題は、「インターネット1996ワールドエキスポ」という仮想空間上のイベントのこと。そこに、“Netsound”というコンテンツがあったということ。
 「インターネット1996ワールドエキスポ」(Internet 1996 World Exposition)は、1996年1月1日から12月31日までの開催期間、世界各国の研究機関・運営組織が立ち上げた“パビリオン”なるものを、ネット上に設けた博覧会であった。テーマはインターネット。インターネットという新しいインフラストラクチャーのメディアを利用し、情報発信の試行錯誤や新たなコミュニケーションの在り方を模索するというもの。
 実は驚くべきことに、この当時の“日本ゾーン”のWWWページが、現在も一部残っている(→https://park.org/Japan/JZone/Low/LwhatIWEj.html#03)。これを閲覧すれば、エキスポの全容がだいたい分かるだろう。
 残念ながら肝心の、“Netsound”のページは残っていなかった。その“Netsound”とは、いったい何か?
《これは活動するネットワークそのものを聴覚化するという試みのもと作られたもので、東京工業大学大野研究室のネットワーク内をデータが行き交う様をリアル・タイムに聴くことができます。「いま、東京・大野研のネットワークが鳴っている音が、聴こえてきます」と書かれたリンク・ポイントをクリックすると、通信プロトコルごとに割り当てられた音(音楽家の山口優氏が制作。センス最高です)によって織りなされる調べが聴こえてきます》
《ネットワークに接続されているコンピューターの時計を合わせるために一定の間隔で鳴るNTP(Network Time Protocol)や、ネットワークを流れていくデータのために案内板を書き直す時に聴こえるRIP(Routing Information Protocol)が作り出すサイレントなサウンドスケープの中を、ネットワーク管理のために相手のネットワークへ発するICMP requestと、それに応じて返ってくる音が潜水艦のソナーのようにうつろに響きます。時折連続的に聴こえるのは、だれかがWWWページにアクセスしたりニュースを読むと発生するプロトコルが放つアクティブな音です》
(『Sound & Recording Magazine』1996年12月号、尾島由郎著「世界の縁側」より引用)
 以前私は当ブログ「おはようパソコン通信」で、ケンブリッジ大学Trojan研究室の“The Trojan Room Coffee Machine”というWWWページを紹介したことがあったが、それまでの既成メディアにはなかったインターネット特有の、いわゆる双方向通信の常態的連続性に着目し、“オンライン”が実感できる形としてのソフトウェアが当時、たいへん興味深く扱われたように思う。片や“The Trojan Room Coffee Machine”は、コーヒーメーカーを撮影した画像を連続的に送り、片や“Netsound”は、ネットワーク上のプロトコルの変化を聴覚で確認できるといったコンテンツ。後者は、その常態的連続性のあるサウンドスケープが、まるでコンピュータが作り出す音楽のように、あるいはコンピュータそのものが生きものであるかのように感じられる。それを感じる人間心理の新しい感覚こそが、実に深淵で哲学的だと思った。
 そうした人工的とは言え人間が無本位であるコンピュータの発振するサウンドが、観察する人間にとって心地良いサウンドとなり得るのかどうか。そうしたサウンドが音楽ととらえられて、一つのジャンルとなり得るのか否か。
 《癒し》のサウンドとしての片方に、自然界のサウンドスケープがある。そしてその対極に、コンピュータが織りなす無機質なアンビエント・サウンドがある。どちらも愛すべきサウンドであるかも知れない。
 皮肉にも、人と人とを結びつけるためのコミュニケーション・ツールとして存在するはずだったコンピュータそのものが、その本来的なビジョンから遠のき、かつての生身の恋人友人と同じ定義で「“愛する”対象者」となってしまったことの哀しさは、1996年ではまだ予感めいたものでしかなかっただろう。だがもはや、そのことは否定しようのない現実である。新しい実存である。愛すべき対象は人間の恋人や友人ではなくなり、最も親しいコンピュータである。「世界の縁側」における様々な記述は、インターネットによって透過された未来型人間の悲劇だったようでもあるのだ。

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