【これが正真正銘、マドンナの『SEX』】 |
前回に引き続き、1992年に出版されたマドンナ(Madonna)のフォトブック『SEX』についての回想及び論考。このフォトブックの外観については、先の伴田良輔氏のエッセイ「スクラッチ感覚」の中のキャプションが的確。
《アルミ製リング綴じのカバーにSEXという文字を型押し。さらにこれが銀色の袋に入っている。CD(シングル)付。Madonna, Steven Maisel/『SEX』/Verlag Warner Books,Inc. New York, 1992 日本では同朋舎より出版》
(伴田良輔著『奇妙な本棚』「スクラッチ感覚」より引用)
それはあまりにも大きな障壁であった。これが出版された年、私はまだ20歳であった。高校2年(1989年)の時、マドンナの4枚目のアルバム『Like a Prayer』に触発され、挑発され、その3年後に訪れたマドンナのこの新たな扇情的挑発。しかし、これに対しては――尤も世界中の多くの一般人がそうであったと思われるが――乗っかりたくても乗っかれない自己の《性的欲望》に対する「冷ややかな眼差し」=《理性》という障壁が、その購買意欲を著しく抑制してしまったのだった。
果たしてあの時、“度が過ぎた”セールス・プロモーションであったかどうか、私の記憶にはない。が、マドンナが《性的欲望》を掻き立て、創作蜂起しているというよりも、それに群がったあらゆるエスタブリッシュメントが巧みなビジネスとして、《性的欲望》という幻想を我々の悶々とした葛藤の中に紊乱させ消費させようとしている、言わばその手練手管への大衆の抵抗の度合いは、決して小さくはなかったであろう。――20歳になってまもなく、マドンナの『SEX』を買い求め、どっぷりとそれに浸かるのには、些か日常の瑣末としては荒唐無稽な趣があった。連綿とした日常性における無理、impossibleな雰囲気。いかなる理由においても、未成熟な社会人としての私の自尊心は、ズタズタになったというのは少々大袈裟すぎる表現だとしても、到底それを容認し得なかったのである。
それでいてあの時、そう思ったことが逆に愚鈍の極みであったと――今となっては悔いる。愚かな自分を叱咤する。まったく馬鹿げた論理の、《理性》であったと――。
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【破廉恥に満ちたマドンナのプレイの高まり】 |
当時1992年の頃は、ネット・ショッピングという便利なものは、まったく無かったと言っていいほど浸透していなかった。早い話、本を買うには、ごく普通に直接書店におもむいてレジの店員と向かい合って買う以外に方法はなかった。20歳の青年の本の購入法としては――。ただしこの場合、レジの店員と向かい合ってというのが、“自殺行為”なのであった。言わずもがな。
マドンナの『SEX』が日本版で同朋舎より発売された直後、もしかすると私は、新宿の紀伊國屋あたりの書店で、一斉に山積みされた『SEX』の外装箱の姿を、目撃していたのかも知れなかった。しかし残念ながら、それを買う勇気は、やはりなかったわけである。定価6,000円でことさら高いとも安いとも思わない本の値段でありながら、それを見開いてみたい欲望よりも、店のレジ係に『SEX』を手渡す羞恥心には、到底勝てそうになかったからである。私の20歳の頃とは、どの程度のものかと訊かれれば、実際その程度の、ちょっと風が吹けば簡単に吹き飛ばされるくらいのペラペラな心でしかなかったのだ。
【美しさは密やかな情事の中に】 |
マドンナ陣営の“セクシュアル旋風”ビジネスに乗っかるな。風紀を乱すな。抵抗し続けろ――。いや、別に抵抗したくないし、マドンナのヘアヌードもちょっと見てみたいのだけれど、本屋さんであの本が恥ずかしくて買えないだけなんです。とどのつまり、ただそれだけ――。そうした20歳の縮図が、すなわちそのことのつまらぬ自主規制が一つの背景となって、私の中でずっと高まり続けていたマドンナという存在への強いヴォルテージが、一気に消滅してしまったのは意外であった。マドンナという強烈なシンボルが(“セックス・シンボル”という意味ではない)、私の内面から厳然と消滅した――。これは密やかな告白にもならないショッキングな出来事というのと同時に、《理性》の浄化の罠の、確たる勝利を意味していた。裏を返せばこの勝利は、私にとって敗北であった。
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【これほど美しいマドンナの姿は他にあっただろうか】 |
さて、そうした甘ったるい時代、つまりあれから26年の歳月を隔てて、外装箱からアルミ製のリング綴じのフォトブックを取り出す“所作”を体験する。
ちなみに私は、過去に似たような体験している。三島由紀夫の『仮面の告白』の限定本である。昭和46年に売り出されたこの限定本は1,000部しかなく、特殊な形状製本となっており、装幀のフレームが鈍色の真鍮で縁取られ、表紙はガラス製である。本を読むだけにとどめるのならば、かくも高慢で悪趣味な限定本であるが、装幀を開き、中の本を取り出す一連の“所作”は、なかなか礼節を帯びた雅なものである。三島の上半身から漂う高慢な香水の匂いが鼻をつく、彼独特の文学の世界がそこかしらに詰まった稀少本と言える。
【どこまでも過激に淫猥に】 |
閑話休題。マドンナという存在も、似たようなものかも知れない。虚と実の境界線が判然とせず、周囲を何かしら脅かすオーラに満ちた巨星。『SEX』のリング綴じのフォトブックは、三島のそれに比べればずいぶん軽微な装幀だ。やはりそれでも、まるでマドンナの居るベッドルームにこっそりと忍び込むかのような泥棒変態的情欲に駆られ、その偏狂世界に存分に浸れるという点において同様、性的かつマッドネスな本である。しかもポルノを装っていながら、実質的にはアートである。
【男娼と乳房の駆け引き】 |
前回の「伴田良輔の『スクラッチ感覚』」の中で私は、同朋舎の日本版(修正有り)について、《ほぼオリジナルの“原形”は整ったままであり、今回、さして“オリジナル版”を入手する必要はないと思われた》と書いたが、結局のところ、その“オリジナル版”も今回入手している。日本版の修正箇所はごく一部であり、遜色はまったくないどころか、日本版の方が紙質が良く、ブラックポイントの度合いが比較的浅くて高精細に感じられる。
中身は――。マドンナと、その親愛なるパートナーら(ビッグ・ダディ・ケインやナオミ・キャンベルといった面々)による愛とセックスの妄想カリカチュア・フォトグラフィー(撮影はスティーヴン・マイゼル)が延々と続き、スクラッチ化された夥しいメッセージ、日記のたぐい、不可思議なセックスの情景描写をたどる文章は、ほとほと困り果てるくらい濃厚で過激で、えぐみの強い果実酒のようである。過度な性的興奮によってほとばしる精液とヌメヌメとした膣分泌液の混ざり合った、否応なく襲いかかるヒステリックな情緒感が、このフォトブックの特徴であり、最上の萌芽である。
豊かな快楽の幻想――。この妄想アートの深淵はより深く、より暗闇に満ちた世界。そこにただ一人立ち尽くしたマドンナの、あの時代のセンスとモードのinfluenceは、私を造り替えるはず、であった。『SEX』は愛とセックスを語る。今なお私の胸の中で、その物語は続いている。
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