赤いパンツの話〈二〉

【ザミラ社の赤いパンツを穿いてアートワークのスチル撮影】
 前回の赤いパンツの話の続き。今回は少々深い話で、長い。
 たかがパンツ、されどパンツなのである。パンツを侮ること勿れ。パンツ(=アンダーウェア)というものは、穿いている本人と日常生活を共にする《所縁ある所有物》であるから、その穿いているパンツの柄やデザイン、形状によって、その人の「品格の指向性」を占うことができるのではないかと私は思っている。
 その一方で、特に男子にありがちだけれど、パンツに対していくばくかの妙なこだわりがありつつも、自己の所有物とするにしてはあまりに節操がない無頓着な選択――柄なんかなんだっていいのさ…。2枚組で500円なんて手頃な値段じゃないか…。よしこれを買っておこう――に陥る場合が多い。
 この手の所有物は、そもそも“他人に見せるべきものではない”から、どんな柄のパンツを穿いていたって構わないだろう、という考えに落着してしまうのが常である。壮年期を過ぎるとまさにその土壺にはまる。言うなれば、ショップ側の消費者に対する「過度な情愛」に消費者が甘えるかたちでの、ありふれた構図なのである。
 
§
 
 余所の他人が自分のパンツを見たりする機会は滅多にない。少なくともしげしげと見られることはないだろう。たぶん。奥さんや恋人、自分の息子娘にパンツ姿を見られることはあっても、自分とそのパンツの「隠密な関係」を暴露されることはない。その視線は秘匿の可視である。旦那のパンツは私が買い与えたのだから、という場合は別にして。
 ともかく自分は、自分のパンツをよく見る。当たり前のことのようだが、自分のパンツは自分で確実に目視する。それは自分でそのパンツを穿いているのだから。
 自分で選んで買ってそのパンツを穿いている以外に、奥さんや二号さんに買い与えられたパンツを穿いている場合においても、ほとんどの場合、そのパンツに盗聴器や隠しカメラが巧妙に仕込まれていることはおそらくない――。自分とそのパンツとの関係は、実に隠密なものであって、《所縁ある所有物》への親近感はいささか奥さんとの関係と比較しても、なかなかどうして、穿いていたそれなりの期間のうちに充実した性愛の企みをしつこく帯びているはずである。実はこのことが、とても重要なことであると、私は気づいたのだった。
 
【ザミラ社の赤いパンツが届いた写真】
 パンツにおける「品格の指向性」とは、パーソナリティのことである。厳密に言うと、その人の個性というより、その人の“その日”の個性、という意味が正しい。それを他人がどうこう占ったり決め込むことではなくて、自分がその日一日を過ごす上で、「自分自身とどう向き合うか」というモチベーションなりポテンシャルなりエクスペクテーションが重要なのであり、その最初の(その日の朝の)対峙が、パンツなのである。パンツは、奥さんや二号さんよりもあなたのことを、よく知っている――。
 したがって、穿いているパンツと向き合うことは、自分自身と向き合うことと同義である。これが結局、ザミラ社の赤いパンツの、ユーザーポリシー《いかなる戦いにも勝つ》とか《人の挑戦を笑わない》とか)とつながる話なのだと、私は思っている。
 
§
 
 某日、待ちに待った赤いパンツが届き、アートワークのスチル撮影のためにそれを穿いた。いい履き心地である。心と肉体が共鳴し、ゆるりと溶け込んでいく感覚の履き心地――。おや? そういえば、あれは? そうそう、気がつかなかった。あれはいったいどこに?
 そうそう、あれである。あのことである。新聞記事で書かれていた、あの「memento mori」の文字は、パンツのどこに刻印してあるのだろうか。
 撮影が無事に済んだ後、腰回りをちょろりとめくってみた。けれど、どこにもない。めくる部分が次第におおっぴらになって、あれがどこにもなかったから、とうとうおしまいにはパンツ全部をずりおろさなければならなかった。うん…? あ!
 
 この、あ! という衝撃は宇宙の神秘を思わせた。そこに「memento mori」。そこにメメントモリ。ソコニめめんともり。いやいや、その時は確か、「memento vivere」(訳すと“生を想う”)と読めた。文字を反転させても読めてしまう不思議な字体である。刻印してあったのは、意外な箇所であった。こんなところに。こんなところに。コンナトコロニ。何度も声を出して言いたくなる、こんなところに。パンツをずりおろして、尚それが見つけにくい箇所――。いったいどこに刻印されているかは、この赤いパンツを実際に穿いて楽しんでもらいたいものである。自分自身とその可愛らしい“倅”をチラ見しながらメメントモリを見つめる行為は、とても大事なことかも知れない。
 
 この赤いパンツをモチーフにして、曲を作るということに関しては、自分自身の曲作りのモチベーションが近年、音楽の構造の殻を「解体する」、余分な構成を「脱ぎ捨てていく」という心持ちによって成就していたのに対し、ごく最近はその心境からついに変容した。私はようやく音楽の諸処のパーツを「着飾っていく」、「着込んでいく」楽しさに気づいた次第なのだ。
 例えばアメリカはニューヨークの、“厳しい冬”という環境下において、ヒップホップの文化や潮流が、「フリーズドライしながら着飾っていく」=ミックステープを競い合うことでスケールアップしていったことと共通する事項である。だからパンツを脱ぐのではなくて穿くのだ、着込んでいくのだという観念の重要さに関しては、その冬の寒さで眠気が吹っ飛ぶほど、音楽的には深い話なのである。
 
【ハミパンはダメよ、などのユーザーポリシー】
 ザミラ社ユーザーポリシーにあるように、《YOU DO NOT SHOW “HAMI-PAN”》、つまり紳士的ではないからうちのパンツでハミパンはダメよ――という信念を私なりに解釈するとなると、こういうことになる。
 現地(街)のラッパーが下着をハミパンにしてちょい見せするストリート・ファッションは、着飾る文化の(ごくごく稀な状態としての)ちょっとした疲れや無感覚性、あるいはシャイな遠慮の裏返し、ととらえていい。着こなしのだらしなさを可愛いと言ってもらえるのならまだいいが、それをわざとやるようになると、話は違ってくる。ストリート・ミュージックであるヒップホップを、フリーズドライしないで高層ビルの上階に持っていくと、それはたちまちジャンクフードではなくなって高級なワインが付いてきてしまう。こうした傾向には、注意が必要だ。紳士的であれ、というのはパンツを脱ぐなよ、ということであり、お偉いさんの前で脱ぎ始めるのは、己の純粋な音楽性の崩壊を意味する。
 
§
 
 さて、ここからはまったくの余談として、ブリーフとパンツの歴史について触れる。
 正直申し上げて私はこれまで、カルバン・クラインやユニクロ、B.V.D.などの下着を好んで愛用してきた。アバクロにも一時期、デザイン的な好みで興味があったが、最近は遠のいて買っていない。やはり身近なショップで買えるカルバン・クラインやユニクロの方が親近感があり、不都合がない。
 ところでB.V.D.という商標名は何の略か――。知らなかったので調べてみると、Bradley(ブラッドレー)、Voorhees(ブーヒーズ)、Day(デイ)の3人の創業者の名の頭文字だそうで、1876年にニューヨークで設立したブランドである。B.V.D.の商品は、国内ではフジボウアパレルが販売している。なんとなく新しめのアイコンの感覚があったが、れっきとした老舗のブランドなのだ。
 かつて90年代、プロレス団体である新日本プロレスがこのブランドとコラボレートし、そのカラフルな広告がリング上のマット一面にプリンティングされたことがあった。会場の観客もテレビ中継の視聴者も、試合を観るにつけ、そのB.V.D.のロゴを始終見続けたことになり、その広告の視覚的効果というか影響は計り知れない。むろん、テレビ中継の合間のコマーシャルもB.V.D.であった。それにすっかり影響され、その頃私が着用していた下着類は、ほとんどB.V.D.だったのである。
 
 今はカルバン・クラインとユニクロのパンツを穿くことが多い。カルバン・クラインのボクサーパンツはシックな黒を着用し、ユニクロのブリーフはカジュアルな柄物を好んで穿く。前者はビジネス用、後者はプライベート用、といった感じで個人的に使い分けている。
 ザミラの赤いパンツの話から少し遠ざかる。近代のブリーフとパンツの歴史を調べてみた。こんな機会がなければ、なかなかパンツの歴史を知ろうとは思わなかった。だがこれがなかなか面白い。
 
 現在、男性用のパンツとしては、トランクスよりもブリーフの方が好まれているかと思われる。ブリーフのあの形状というのは、1935年、シカゴの下着メーカーのクーパーズ社が最初という説がある。もともと乗馬やスポーツなどで使用していたサポーター(ジョックストラップ)が前身のようで、激しい運動によりふらふら動いてしまう性器を固定するための形状から派生し、一般的なアンダーパンツとしてのブリーフが誕生した。ブリーフのあの画期的な特徴である前開きの機能は、翌年に発表されたマンシングウェア社のアイデア、だという。
 このブリーフの誕生には、別の説もあって少々困惑する。アメリカのユニオンスーツ(つなぎ型の下着)のメーカーであるヘインズ社が1932年、ニット素材の紳士用ブリーフを製作した、というヘインズ社の公式サイトの見解もある。
 1932年のヘインズ社か、35年のクーパーズ社なのか。これを突き詰めてどちらのメーカーが先にブリーフを開発したかを探ることは、私の関心事から外れるのでやめておく。ともあれ、それよりも前に遡って19世紀の頃までは、欧米では一般にパンツというものを穿いていなかった。これは事実である。着ていたのは男女共、上下のつなぎ型のユニオンスーツであった。
 
 ブリーフの誕生よりも少し遡る。1910年、それまで一般普及していたユニオンスーツを、上下に切り分けたメーカーがあった。カルマーズ社という紡績メーカーである。上下を切り分けたことにより、ユニオンスーツの下の部分は、後々のトランクスの原型となったのだ。日本ではこれを、“西洋褌”と称した。腰から股を布で覆う「猿股」(さるまた)である。
 1910年を年号に言い換えると明治43年であり、その年以降、国内に“西洋褌”の「猿股」が流入されて広まった、ように思われる。が、漱石の『吾輩は猫である』の文中(第七章)に「猿股」という名詞が出てくる。この小説が発表されたのは、明治38年(西暦で言い換えると1905年)の雑誌『ホトトギス』であり、厳密に言うと、第七章が発表されたのは明治39年1月1日の同雑誌第九巻の第四号であるから、カルマーズ社の上下に切り分けた形状の“西洋褌”の流入の時期とは5年の開きがあって、漱石の「猿股」の方が古いことになる。これはいったいどういうことなのだろうか。
 第七章では人間の裸と衣服について論じた長い論述となっており、《単簡なる猿股を発明するのに十年》と車夫の先祖を皮肉っている。あの当時、車夫が穿いていたのは黒の股引で、この股を通して穿く布製の下穿きは、「猿股」と同じである。ただしこの場合の股引は、下着ではない。車夫は股引の下に褌を巻いていたはずである。漱石が書いた「猿股」は、旧来の職人の作業着を指していたかと思われ、流入してきた“西洋褌”=褌に替わる下着=トランクスのことではなかったのではないか。日本人がそれまで穿いていた旧来の股引のことを「猿股」とも言い、“西洋褌”のトランクスも「猿股」と十把一絡げに称していた、と考えた方が無難なようである。あくまで私論に過ぎないが。もしそうだとすると、この「猿股」の件はかくも凡庸に落着してしまう。
 日本人が穿いていた下着というのは、江戸時代以降より太平洋戦争に至る近代に限定するとなると、男女共、「褌」(ふんどし)もしくは「猿股」が一般的、ということになる。尤も、下着無し、ノーパンという選択肢もあった。
 翻って欧米の近代におけるパンツの歴史を紐解いてみると、先述したとおり、つなぎの下着からトランクスが誕生し、のちにブリーフ型が生まれた。ちなみに日本でブリーフ型の下着が爆発的に流行したのは、戦後の昭和30年代以降ということになる。物に溢れかえっていたアメリカの文化に憧れて、貧しい日本人が西洋パンツ――若々しい輝きに満ちた白ブリーフの美しさ――に飛びついた心境は、痛いほどよく分かる。
 
 西洋においても東洋においても、古代から中世、あるいは近世から近代にかけて下着と呼べるものは、男女共に「腰巻き」のたぐいであった。それは腰に布を巻き付けていたか垂らしていたかの違いにしか過ぎず、東洋あるいは日本においては、布が薄く、前後ろで縛りやすい紐状になっている「褌」の型の下着が広く普及していたのは、軽くて動きやすいという利便上、当然の帰結かと思われる。それが身分の違いや士農工商の生活文化によって、「褌」の汎用性にどのような濃淡があったかについて、もはや専門的な話になりすぎるかと思うので割愛する。その点、「猿股」は気軽なアイテムである。
 下着にもそれ相応の意味が込められている。「褌」は、成人になった者だけが穿く下着、という習わしもあり、元服の意味が込められていた。このあたり、ころもへんに軍と書く字で察しがつくと思われるが、男子の勇ましい姿の象徴でもあった。ちなみに元服前の子どもは、寝冷え予防の効果もあった「腹掛け」を着用し、この慣習は明治以降も続いた。大人になって「褌」を腰に巻く、という一般的な通念は軍隊でも採用され、徴兵によって兵隊になると、「褌」着用が義務づけられていたのである。古来「褌」の面目躍如であった。
 
§
 
 ブリーフの話が褌に変わってしまった。これ以上続けると、さらに話が長くなってしまうのでやめる。
 何故ブリーフの歴史に触れたかということにつながるのだが、「健脚ブリーフ」をやった時のモチーフとなったブリーフが、実はフランス画家フレデリック・バジール(Frédéric Bazille)の油彩画「夏の情景」(Scène d’été)がヒントとなったことを当ブログの「浮遊―透明なパンツ、透明な歌声」で述べた。
 
 あの絵が描かれたのは、1869年なのである。フレデリック・バジールが描いた“青年達の穿いている物”が下着だとすると、ブリーフ誕生の歴史としては困ったことになる。あれは完全なボクサーブリーフだからである。アメリカのブリーフ誕生の以前に、既にフランスではブリーフが存在したことになるからだ。
 あれは海水浴の水着――と再解釈しなければ道理が立たないのだけれど、水着としてみてもデザインが素晴らしく現代的で、腰巻きというたぐいではなく、フレデリック・バジールを服飾デザイナーとして見立てると相当なセンスだったのではないか。まさに現代の、おしゃれなアバクロのアンダーウェアにしか私には見えない。
 ちなみにアバクロ(アバクロンビー&フィッチ)は1892年創業で、ヘミングウェイがよく好んでショップに訪れたブランドだそうである。謎だらけのまま、終わりたい。

追記:「人新世のパンツ論①―プロローグ」はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました