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【前回に続いて寺山修司の「青年よ大尻を抱け」】 |
前回からの続き。寺山修司著『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)「青年よ大尻を抱け」。
女性が感じるところの、「男性の性的魅力」に関する手痛い理屈は、単に、〈もっと大きなタマの持ち主になって♡〉、あるいは〈タマの大きな人が好きよ♡〉、という世の男性に対する逆説的なエールでは済まされないのであった。ちなみに、現物のタマの大きさ――については前回書いた――であるとか、ずばり男根の大きさの違いで「女性をセックスで喜ばす」度合いが違うのであろうか、というと、それについての医学的(性科学的)根拠はほとんどないに等しい。何故なら、性感帯で見ていくと、子宮膣部というのは他の性器周辺の部位に比べ、最も「鈍感な」部分だからだ。膣は伸縮自在であり、大きくとも小さくとも、いや、ちっちゃなペニスでも充分に締め付けてくれるものなのだということを、昔、セックスについて詳しい医学博士・奈良林祥氏の本で読んだことがある。
時に男性は――これは特に若い頃の経験として――来たるべき喫緊のセックス・ランディングに向けての前哨計画、すなわち、完全なる自身の私的空間と時間とをこしらえておき、必死に己の男根をまさぐり、それをほんの数ミリでもいいから「肥大化させよう」キャンペーンを企てることがある。これは一般的に、時折欲望に駆られた男が起こす衝動であるから、世の女性の方々は、愚かしいと思わず大目にみていただきたい。「肥大化させよう」キャンペーンは男の衝動として、自己の肉体に掲げた壮大なる密旨となり得るが、それは勝手な解釈(これを正真正銘、妄想という)であって、大抵は失敗に終わるものである。
〈大きな男根は、カノジョが喜ぶのだ。いやきっとそうに違いない。是非とも大きくなったのを見せびらかしたい〉と、男はふいにくだらないことを考える。思いついたこの手の妄想あるいは一大決心というべきものは、そこから中座して自制することが甚だ難しい。気がつけば、あらゆる器具(例えばポンプとか)や薬を買い込んで、ついその「肥大化させよう」キャンペーンを断行してしまうものなのである。セックスの相手にとっては、ありがた迷惑な話であり、この計画キャンペーンが別段何の意味も持たないことを、セックスの場において双方が、顔にも出さずゆるやかに認知されるのであった。
尤も、女性の方は、そういう男性を喜ばせようとする。「あら、あなたのって、すっかり大きくなって逞しいじゃない。感じちゃうわ。やっぱり大好きよ♡」などと口からデマカセを漏らしてしまうような包容力のある人も、いるかも知れない。実際のところ、それが大きかろうが小さかろうが、知ったこっちゃないんだって。本当はあなたの愛が大事なのさ、でもその愛の示し方って、ちょっと疑問符が3つくらい付くわね、と言いたいである。
別に感じてもいないし喜んでもいない。このことは、男はよく理解すべきなのだ。私のために、高額な器具(例えばポンプとか)や薬を買い込み、ありったけの暇な時間を浪費してくれている、ということには、微量の感動があるかも知れない。が、インチキな器具(例えばポンプとか)や薬の効果など期待するまでもなく、私たちのセックスは私たちのもの、私はさ、ただ普通に硬くなってくれさえすればいいのよ、と女は思うのである。
性にまつわる男の側の、勝手な思い込みや妄想・幻想のたぐいというのは、それが相手に対しての性暴力や性的ファシズムに陥らない限りにおいて、豊かな「性の文化」の一葉ということが言えよう。女性に対する失敗談でとても豊かなのは、若者よりも中年から老人にかけてである。これは紛れもない事実と言える。すべて経験がモノを言う。むしろ、女性を喜ばそうと必死になっている姿が純然と可愛く見えるのは、そうした中年以降の男達なのであって、一方の若者男子はただ〈やりたい〉という願望が顔に出ているだけだから、女性からすればなんとなく物足りない頼りない、と思ってしまう。寺山曰く、若者はまだ、「性の文化」が乏しいのだった。
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【寺山修司著『書を捨てよ、町へ出よう』角川文庫より】 |
寺山は、アメリカの作家ノーマン・メイラーの“論文”というのを引用している。
《南部を知っているものはだれでも、白人は黒人の性的能力を恐れていることを知っている》
(寺山修司著『書を捨てよ、町へ出よう』「青年よ大尻を抱け」より引用)
この“論文”の「白人」を「老人」に、「黒人」を「青年」に置き換えよ――と寺山は示唆する。ところで私は「青年よ大尻を抱け」を初めて読むまで、ノーマン・メイラーについて詳しく知らなかった。上述した“論文”というやつが、彼の著作のうちのどこから引用されているものなのか、これを書いている時点で私は把握していない。したがって今、ノーマン・メイラーの全集(山西英一訳、新潮社)などを買い求めることにした。後日、はっきりと分かると思う。
さてそれを置き換えて、「老人は青年の性的能力を恐れていることを知っている」という文章に変わる。寺山は《性的優越性》という言葉を用い、「老人」が「青年」に対して性的な支配権力を振りかざしている旨を述べようとしているのであった。
寺山は、2つの実例的なエピソードについて触れている。
一つは、喫茶店(新宿の風月堂?)でチャーリー・ミンガス(正しくはチャールズ・ミンガス、Charles Mingus)の「豚が呼んでるブルース」(“Goodbye Pork Pie Hat”?)を聴いてしょぼくれているという20歳の男子の話。女の子を奪(と)られた、という。女の子を奪ったのは、46歳の会社の部長。部長が彼女をクラブに誘い、その後、ホテルへ連れて行くと、彼女は簡単に沈没した――。
もう一つは、女の子の告白話。バンドマンの彼氏と付き合っていたが、金も無いし将来性も見込めないので、割り切って洋服会社の社長さんと付き合い始めた。そうしたらベッドマナーが忘れられなくなり、彼氏と会うのが苦痛になってしまった――。
女はいつだって金に目が眩んで――というは易し。寺山はこう言いたかったのだろう。世間の孤独な老人、慰めの必要な老人と言ったって、よく見よ。実質的に政治的主導権を握っているのは彼らだ。しかも今、性的主導権すらも、副腎皮質ホルモンたっぷりの青年らから、まんまと掠奪しようとしているではないか――。
寺山は暗に、本気なのであった。これを単にジョークのたぐい、と受け取るのは野暮である。思い起こすのは、《野に咲く花の 名前は知らない…》という歌い出しの反戦歌「戦争は知らない」。この曲は寺山の作詞である。ザ・フォーク・クルセダーズがあの頃、歌っていた。たいへん美しい名曲である。
「戦争は知らない」は、時代と社会に半ば見放され、宙ぶらりんになって置き去りにされた若者達の、しごく当然な、飄々たる叙情詩と言っていい。極論すれば、これは反戦歌ではない。
戦争で親を失った「私」は、その戦争をまったく知らないけれども、いまその自分は二十歳になり、嫁いで母親になっていく。戦争は知らない。だが、親の愛情もろとも喪失し、何者であるかさえ見失ったまま、淡々と成人となって自立し、社会に巣立っていく。その言いようのない不安さ、心細さはたまらないほど悲しい。何か切ない。心の内は淋しくて、淋しくて――。
その淋しくて、淋しくての心情が、若い女性の「強くて頼もしい男性に惹かれ付いていく」心情と結びつけることはできないだろうか。この時代特有の世俗的現象としては。寺山は、若者達の理想的な実存として、「性経分離」のすすめを唱えている。大人たちの驕奢に依存しない、心持ちわずかな「幸せ」と言うべきものの発見と自覚。性経一致は、「不幸」な社会である、とも述べる。
まさに不幸な社会であるのかも知れない。女性の淋しくて、淋しくての心情の矛先は、弱く頼りない若者男子になかなか向いてはくれなかった。寺山はそれを痛いほどよく理解していた。だからこそ若者よ、と、性的復権を鼓舞する。青年に、性の支配権を与えよ。いや、自ら勝ち取らなければならぬ。そして「大尻を抱け」。老人に対して性の主導権を与えず、反撃せよ。寺山はこうもいい言葉を残している。大尻を抱くためには、若者よ、もっともっと、性的ルネッサンスへの夢を膨らませよ――と。
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「青年よ大尻を抱け」は決して、若者同士のフリーセックスを扇情しているのではない。自ら服を脱ぎ、裸体を見よ。その中にあるかけがえのない「幸せ」は、いったいどこにあるのか。その場所を突き止めよ、ということである。
あの当時――もちろん今に当てはめてもそうだが――昭和40年代から50年代にかけて、寺山の劇や映画、エッセイ、批評、詩集などを少しでもかじった青年は、「大尻を抱け」を確実に実践したと思う。実際に読んでみると分かるのだが、寺山の言葉の一つ一つに、青年をそそのかして行動させる不思議な魅力があるのだ。言うなれば、一方で故意か偶然かにより縁がなく、寺山という大天才を避けて通過してしまった青年との差は、その人生観や物事への意欲、日常をふくよかにするサブカルへの浸透の度合いという点において、たいへんな大きかったであろう。「不幸」と「貧困」こそが最大の武器である。それを知ったら、今からでも遅くはない。寺山をがつがつとかじるべきなのだ。
追記:1969年に日本語版で刊行された『ノーマン・メイラー全集』(山西英一訳、新潮社)全8巻をこの度入手。これによると、《南部を知っているものはだれでも、白人は黒人の性的能力を恐れていることを知っている》の記述は、第5巻「ぼく自身のための広告」の第四部「ヒップスター」の、「ぼく自身のための第六の広告」の文中にあることが分かった。
また、この文章の後の、程ない後ろには、《白人は、黒人はすでに性的優越性をたのしんでいると感じているので、そのうえさらに学校の教室で平等になられてはたまらないと思っている。そこに喜劇がある。そういうわけで、白人は、いままで均衡が保たれてきた。古い組み合せは、公平だった、と無意識的に感じているのである。黒人は彼の性的優越性をもっていたし、白人は彼の白人的優越性をもっていた》という文章がある。
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