ウォーアイニーと中国茶

【私が愛用している中国茶器】

 唐突ではあるが、長らく遠ざかっていた中国茶(Chinese Tea)に関する話をしてみたい。

 私淑するmas氏が2000年から約1年にわたってウェブ展開していた、幻のサイト[中国茶のオルタナティブ](サブタイトルは“日本人として中国茶を楽しむということとは何か?”)の独自アーカイブより、私がその中からトピックを選び、2017年10月より当ブログで不定期連載してきた「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」。このシリーズは、中国茶を通じて嗜好を深める格好のサブカル指南書的テクストであった。あれからだいぶ、月日が流れた。

 全11回に及んだ「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル」の不定期連載は、2020年1月をもって閉めている。
 自分でも忘れかけていたのだけれど、その最後は、mas氏の鴨川でのフォト日記(2004年5月付)と、私がチョイスした中国茶の「金駿眉」(きんしゅんび、ジン・ジュン・メイ Jin Jun Mei)の話題であり、これが3年前にしてずいぶんと前のような気がする。
 元来関心のあった個人的なサブカル熱は、その後の世界的な新型コロナウイルス(COVID-19)の災禍の深刻さにずぶずぶと圧し潰され、例えば、茶と禅道について語るとか、ジャズについて語り尽くすといった方向に赴かなかったことは、まことに由々しき災難だと思っている。これには多少、悔いが残る。

 しかし、今、こうしてそれが戻ってきた。本来的なサブカル熱が――。その心持ちの復活に、3年を要したことになるのだが、もう地球規模の災禍が起きたとしても、自身の志向の何かを削ったり、自粛したり遠慮したりするやり方は、二度とやらん――と心に誓った。そんなことをして、失ってしまうもののほうが遥かに大きいからである。

【mas氏のウェブサイト[中国茶のオルタナティブ]より】

可愛い♡台湾タバコ

 某有名雑誌の“台湾特集”を貪っていたら、伝統的な茶器の民芸品を発見し、眼がうるうるとした。〈なにげにこの茶器と急須、よさげじゃない?〉と思い、mas氏の「中国茶のオルタナティブ」を懐かしく思い出した。
 ちなみに、その茶器と急須の写真の横には、グンゼのYGの白いタンクトップが「170元」と記してあって、ああそうなのかと思った。小北百貨の話である。新竹福源のピーナツバターの小瓶が「160元」だから、だいたいそれと同等ということになる。
 YGはともかく、ジャカジャカとした派手な紅色の急須は、なかなか恰幅があって、よさげ。そのうち、海外旅行に行くなら、台湾だと決め込んでしまってもかまわない。この話の元を正すと、台湾に行こうと企てていた矢先、コロナ禍に圧し殺されてしまった――という顛末なのであった。

 ところでmas氏のウェブサイト[中国茶のオルタナティブ]では、台湾のタバコについての記述があったのを思い出した(※ウェブ上ではもう現存していない)。題目は、「台湾でお茶フレイバーの煙草が開発されたという話」。私はこのエピソードのテクストを、2002年か03年にウェブで見たわけである。ちなみにその時私はまだ、30代だった。

 高雄、台南と旅行してきた台湾フリークの職場の先輩から台湾土産の面白いタバコを貰った。なんでも、その可愛さがティーンエイジャーの興味をそそるというので、最初のロットの製造のみですぐ製造中止、国内販売されずに空港の免税店のみでひっそりと売られているらしい。その名は「520」。

 箱は白を基調とした青灰色と黒のデザインでとても地味。書いてあることも低タールタバコとか喫煙は健康を害しますとか何とか書いてあるだけ。しかし、開けてびっくり。フィルターがハート型に中空になっており、そのハート型の穴のそこが赤くなっているんですね。可愛いというかエッチというか。。そして、匂いを嗅いでみると何と紅茶の香りがほんのりと。。。すごいですね~。さすがお茶の国といった感じです。吸ってみると、舌に残る後味は紅茶、味は普通のタバコ、いや、むしろ美味しい、軽くもなくきつくもない(タール8mg)。

 こんな素敵な煙草が販売中止なんて惜しいことです。ハート型フィルターを普通のものにして売り出せば、問題ないと思うんですけどね。。。ただし、想像するに、ハート型の穴の底にある赤い部分が香料の塊だと思うので、ハートじゃなくまん丸にするとか。また、紅茶だけでなく、凍頂烏龍とか、ジャスミン茶とか、そういうフレイバーも欲しいですね。いや、ほんと惜しいです、これが発売早々製造中止だなんて。。(January 2001)

mas氏のウェブサイト[中国茶のオルタナティブ]アーカイブより引用

 詳しくはわからないが、空港の免税店などで買えた(今も買える?)――というこの「520」タバコ。少なくとも、コロナ禍になる前の2019年頃は販売されていた――のを私はウェブで確認しているが、外箱のデザインは改変されてしまったというべきなのか、多少のバリエーションがあるようだ。そのうちの一つは、mas氏が見たものとは違うデザインで、もはやありきたりなタバコの外箱といっていい。この「520」タバコが今も売られているかどうか、私は確認できていない。

 ただ、mas氏が見た2001年以降、フィルターの「ハート型」だけは、同じく健在だったようである。
 それに反して外箱の改変というのを考えてみると、ちょっと可愛過ぎて若者(タバコが吸えない未成年者)に人気が出すぎちゃった♡タバコを、大人向けにマイルドに、まあいってみれば、ありきたりにでっちあげてしまおうじゃないですか――といったぐあいで、そんな大人の事情の、“いわくつきのタバコ”なんだよ――みたいな都市伝説だけは、ちゃっかりずっと継承してしまっているポジティブなタバコなのである。

 話を蒸し返すけれど、この台湾タバコ「520」。“520”はウーアーリンと発音し、「愛してる」を意味する「我愛你」のウォーアイニーと発音が似ているということで、そもそも“520”を「愛してる」と意味づけている文化であるらしい。ネット検索で画像を検索した結果、「天香」さんのブログには、かつてmas氏が見た時のデザインのそれがあった。

 さらにもう一度蒸し返すけれど、フィルターの「ハート型」は、本当に可愛くて、エロティック。mas氏がいうに、台湾国内での販売中止が惜しいからといって、この「ハート型」をやめ、普通の丸形にしてしまったら、それこそただのどこにでもあるタバコじゃないですか!!!――と私はツッコミを入れたいのだけれど、mas氏の関心は、「ハート型」のそこではなく、フレイバーの方。
 そうです、お茶なんです。お茶の話でした。その紅茶風味(?)だけではなく、凍頂烏龍とかジャスミンとかというね――。

 そういう感覚は、私にはよくわからない。何を隠そう私自身は、人生のうちでタバコというものをほとんど吸ったことがないから。
 したがって、タバコの風味がお茶系になってて、それがどういう効能をもち、どんな身体的影響をもたらすものなのか。例えばそれが、マイルドになるとか辛くなるとか、タバコに関する含蓄が何一つ無いのであって、見解を述べることができないのであります♡。

 ともかく、「ハート型」のタバコという点で、その可愛らしさのアイデンティティは保持され、それが無くなったらなんのこっちゃない、ただのありきたりなタバコじゃねえか、という乱暴な口の聞き方でいうと、やはり柳宗悦の所論ではないが、デザインというのは「心粋」を表しているとさえ思われる。深いですね。
 民芸品の価値は、造形とマテリアルの細緻に秘められている。
 そこに本質があるわけで、mas氏のクラシックカメラ好きというのも、案外、民芸品的な感覚でモノをとらえていたのかもしれないなと思った。

【平水珠茶の美しい黄金色を愛でる】

茶話会は夢うつつなり

 昨今、某国会議員が“茶話会”などと称し、架空の政治資金パーティーを開き、資金集めに奔走していた、などという週刊誌の記事を目にして、少々驚いた。ちっぽけな会議用のレンタルルームを数時間のみ借り、そこで講習がてら、“高級サンドイッチ”の食事が出されたというのである。なるほど、“高級サンドイッチ”ですか。資金集めには都合のいい、手頃なレンタル料とサンドイッチ代と講習指導料で済むわけだから、諸経費以外はすべて裏金(?)の収益になるわけだ。

 そんな悪気のある話とは別の次元で、個人的に“茶話会”を開いてみたくなった。
 いまそんなのをやったら、なに架空の政治資金パーティーですか? と訊ねられて嫌悪されるかもしれないが、今どきこのご時世で、“お茶飲み友達”などというような裕福なつながりで、こぢんまりとしたグループのアフタヌーンのひとときを愉しむプランニングなど、思いつかないものである。
 サークルを結成したら、ろくなことになりませんよ――というようなことが記してある書籍もあるようだが、茶話会を開いたら、およそ仕事の愚痴だとか、何処其処の家族のあの人はああだこうだと悪口が飛び交い、やはりどう考えても、黒黒とした連中のグロテスクな烏合の会にしかならなさそうだ。
 考えただけでも恐ろしい。しかしだ、“お茶飲み友達”を持つことは、何かしらの呼び水をもたらすものだともいえる。

【平水珠茶の茶葉の形をじっくりと見ていただきたい】

エロティックな中国茶

 そんな世紀末的茶話会のことはいっさい忘れて、気分を変える必要がある。
 再び、中国茶の「平水珠茶」(へいすいじゅちゃ)を飲む機会を得たのだった。
 「平水珠茶」は、浙江省平水鎮の茶葉であり、緑茶種。香り高く、雑味がなくすっきりとした味であることは、「お茶とサブ・カルチャーのアーティクル〈二〉」で触れた。またこの茶葉が、実にエロティックな造形である(それによく似ている)ことにも触れた。

 エロティックな造形を思わせる茶葉について――。
 これについては、生真面目な方には耐え難い解釈と視覚的表現であることは重々承知しているつもりである。しかしながら、「秘めたるもの」の美しさに触れないで、己の生涯を潔癖に全うしようと試みるならば、おそらくその人生は、凸凹のない平板なものとなるだろう。
 そう、それはまるで、ベニヤ板のようなものです。ベニヤ野郎です。
 だがですね、自分では少しも気づかないで真面目一辺倒に生き、他人から見れば詭弁の人、もしくは硬すぎて食べられない煎餅のような人――とどのつまり、味わいのない関心の持ち得ない人――という印象を持たれる可能性があることは、たいへんな損です。人生の損壊です。それならそれでいいのだけれど、やはり、物事の捉え方において、少しはセクシュアルな方面に対し、頭と身体と社交性を柔軟にしていたほうが、楽しく朗らかに生きられるに決まっているのである。

 閑話休題。
 単なる茶葉が、エロティックなものに見える理由について、私はベケットの言葉を借りたい。

 花や草木は、意識された意志をもたない。それらは、生殖器官をさらけ出したまま、恥じることを知らない。ある意味で、プルーストの描く男女もまた、そうである。

サミュエル・ベケット著『プルースト論』より引用

 それにちなんで大江健三郎氏の『死者の奢り』についてはここでは触れない。が、「平水珠茶」の茶葉が、奇妙な具合に丸まっていて、アレに見えるという話を私は持ち出したのだった。そう、アレはアレです。女性器にポチッとある、クリトリス(陰核亀頭)のこと。

 私は普段、こんな話はなかなか持ち出さないのだけれど、文学的には極めて感慨深いと思っている。知る人ぞ知るプルーストのマドレーヌについて。
 いま私は、「平水珠茶」を飲むのに、フランスの菓子メーカーのマドレーヌを一緒にいただこうとしているとする。まことに恐縮ながら、例えば、“お茶飲み友達”を招いた茶話会で、「平水珠茶」にマドレーヌを添えて召し上がってもらうとしたら、どうだろう。私が話をしだす前に、誰かが、「あら、ずいぶんエロティックな組み合わせなのね」と頬を赤らめてしまうかもしれないのだ。

【フランス製のマドレーヌを平水珠茶に合わせていただく】

 いったいどういうことか。
 つまり、プルースト(Marcel Proust)が書いた、マドレーヌのことなのである(それはさっきもいったね)。
 小説『失われた時を求めて』の《スワンの恋》に出てくる「プチット・マドレーヌ」は、いわば、プルーストの思索に秘する“愛寵アイテム”といっていいのだった。

 母が私の寒そうなのを見て、いつもの習慣に反して、少しお茶をお飲みと言いだしたことがあった。初め私はことわったが、なぜかしら思いなおして、飲むことにした。母はお菓子をとりにやった。それは帆立貝の細い溝のある貝殻にでも流しこんで焼いたかと思える、あのころっとして膨らんだ《プチット・マドレーヌ》と呼ばれる菓子だった。

プルースト『失われた時を求めて』《スワンの恋》(淀野隆三/井上究一郎訳)より引用

 「私」は《プチット・マドレーヌ》(Petites Madeleines)をお茶につけて、そのお茶を一匙飲んだという。すると、なにか異常なものが生じて、なんともいえぬ、快感を覚えた――。そういうくだりである。

 マドレーヌの仄かな匂いとお茶との風味のコラボレーションが、貴い過去の記憶を呼び覚ましたという小説の梗概で、『失われた時を求めて』は知られている。
 フランスの自伝研究家で知られるフィリップ・ルジュンヌ(Philippe Lejeune)の説(青土社1987年刊『ユリイカ』臨時増刊/総特集=プルースト)によると、上述の文章の第一稿では、マドレーヌは「トースト」になっていて、過去にラスクを紅茶に浸した時の想起という文脈だったらしい。
 第二稿より、「トースト」はマドレーヌになり、上述の文章の「帆立貝」云々が、結局のところ、女性器を連想させているのではないかという説である。「膨らんだ」と訳されたフランス語の“moulé”には、女陰の意味もあり、「溝のある貝殻」=弁(英語の“valve”)と一対で想起させるというのである。そしてプルーストは、こうも表現している。

謹厳なつつしみ深い襞につつまれてあんなにも豊かな肉感をたたえている菓子のあの小さい貝殻の形。

プルースト『失われた時を求めて』《スワンの恋》(淀野隆三/井上究一郎訳)より引用

 プルーストの文学的比喩が、もし本当にその意図するものであるならば、文学において精読とは、いかにしておこなわれるべきか、私はその奥深さに体の震えさえ覚えるのである。むろん、小説を読むのに、ある種の感覚的な、感性を拡張する熟読が必要になってくるのだ。
 小説の精読なり熟読なりを拒んで、「秘めたるもの」にいっさい関わろうとしない読者、すなわち“堅物の煎餅”の人――がいるならば、残念ながらプルーストやジョイスとは無縁であり、人生の秘めたる道理の裏側にさえ出会うことは無いであろうと確信する。

 ところで、話の本筋はここなのだが、私はもしや? と思い、プルーストのそれと同じように、実際に茶の中に、マドレーヌの小片を刻んで入れてみたのだった。すると…。 

 おや? これはしかし…。
 こんな不可思議なことがあるのだろうか。私は感じたのである。感じる? 感じた? 感じられた? IKKOさんのコラリッチのコマーシャルではないが、確かに、ふっと、貴い過去の記憶がオールインワンに呼び覚まされた…。これはいったいなんなんだ?

 そうなのか!
 実をいうと、「平水珠茶」の緑茶に、マドレーヌの小片を入れると、仄かに乳の匂いがするのである。そう、これは「母乳の匂い」だ。
 しかも単なる匂いというのではなくて、それに口づけしようとするものに対する、情愛にあふれた甘ったるさの神秘的な匂い。赤ん坊の我が身が、母親の胸の中にくるまり、乳房を吸った時の記憶…。

 といって、わざわざプルーストを持ち出し、自身の「平水珠茶」への愛情を吐露してしまったことに弁解の余地はないのだが、畏れ多き幸福の飲み物=中国茶に接する時は、全身の力を抜き、心を柔らかくしておいたほうが良い、ぐらいの話である。

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