私事のお知らせになりますが、約1年弱、我がSNSの先鋒として利用していたマストドンのアカウントを先日(2024年2月21日)削除いたしました。代わって、進捗著しいBluesky(@petroaonuma.bsky.social)を新たに発信の場の主力とする旨をご報告いたします。
マストドンからBlueskyへ
昨年の4月末、X(旧ツイッター)から撤退してまだ日が浅い(当ブログ「ツイッターからマストドンへ」参照)。それ以降、利用するSNSは、マストドンとインスタ、そしてThreadsの三刀流(?)に落ち着いた感があった。ただし、昨年の9月末には、情報収集用としてXのアカウントを再取得している。これは、ほとんどポスティングしない、ほとんど他のユーザーの方々のポストを見るだけのアカウントなので、利用頻度はかなり低く、度外視。
先の三刀流は、SNSの手段として、自分が好んで選択しうる「最適なツール」という認識のもと、励んでいた面がある。しかし正直なところ、マストドンは少し毛色が違うな、ということは思っていた。尤もそれは、いずれ気分が変わるものだろうと、それほど気にしていないことでもあった。利用を高める余地はじゅうぶんにあるだろうとも考えていたし、試行錯誤はそれなりにしたつもりだった。
ジャック・ドーシー発案の分散型SNSであるBlueskyも、ベータ版の招待制の時に既にアカウントを取得していたので、様子見はしていた。まだその時は、Blueskyはまるで青い空の下の「原っぱ同然」の雰囲気で、何かがうごめいている感じはなく、よくいえば国際人が集う物静かなサロン――にしか見えなかった。
そうして昨年末、Blueskyは日本語対応となり、さらに今月、いよいよ招待制が解除されて登録フリーとなり、どなたでもアカウントが取得できる体制となった。ここで一気に雰囲気が変わった。
物静かだったサロンは、一変してにぎやかなダンスパーティー会場となり、華々しい宴の日常と化した。――まあそれはちょっと比喩が綺麗すぎているかもしれないが、とにかくあちらこちら、日本人ユーザーがわんさかと増えて、青い空の下――まるで映画『サウンド・オブ・ミュージック』の、高い丘で朗らかに歌い踊るジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)さんのような、そういうイメージが想起されたのだけれど、これもやはり、比喩が潔癖で綺麗すぎるだろうか…。
私がマストドンを離れた理由
客観的にBlueskyとマストドンのGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を見比べてみたところで、その違いにさしたる違いはない…と思う。同じような分散型SNSでしょ? と誰しも思ってしまうかもしれない。私も去年くらいまでは、その程度の感覚でしかなかった。ちなみに、専門的にいうとマストドンは(現況)ActivityPubの通信プロトコルを採用し、Blueskyは(現況)ATプロトコルを採用。
しかしながら、今月になってBlueskyを利用し始め、ジリジリと使っていると、なんとなくその違いが感覚的にわかってきた。やはり比較してしまうとマストドンは、同じ分散型SNSでありながら、ある一面性を持った殻を、打ち破ることができていないように思われたのである。
以前よりマストドンは「発信力が弱い」、「拡散力が高くない」という評判があった。評判というより、これはもうその通信プロトコルの特性なんですよと、マストドンで知り合ったユーザーの方々に、口を酸っぱくいわれたこともある。
一応、マストドンとしては「全文検索」できる仕様にはなっているそうだが、各インスタンスの方針やらサーバー上の余力などの理由もあり、実はここがいちばん大事なところなのだけれど、そもそも“X(旧ツイッター)と同じ轍を踏まない”信念が強いインスタンスのオーナーさんが少なくなく、劇的にマストドンの使い勝手をXみたいにしようとは、考えていないようだ。
またそんなことをいうと、だからマストドンとは元々そういうものなんです、Xとは別物ですよ――といわれそうなのだけれど、私がいたmstdn.jpでは、「全文検索」が望ましい機能だとは思われていない節があったので、そこのところは、インスタンスによって対応がまちまちなのである。
それなら他のインスタンスに移ればいいじゃないか、というご指摘を賜るにしても、そういうことを実践しなきゃいけないほど、マストドンって初心者に向かないものなのか? とも思ってしまい、IT関連のテクニカルな話題だとかは比較的多く目につく感じはしたものの、例えば地域密着型の、小さな商いで「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」と店頭の品々をリストアップしている方を、私は同じインスタンスの中で見て知っているが、そういった形での情報が、拡散して広まって話題になる――というXみたいな中央集権型の仕組みの通信プロトコルにはなっていないので、小さな商いの宣伝広告的な拡散と収集は、ほとんど無理筋なのだ。
つまり、マストドンは、分散型SNSとしての持続可能な手段ではあるものの、内実、ツゥート(ポスティング)してもそれは発展とか拡散とか、そういうふうにはならないので、情報の資源であるポスティングをし続けたとしても、いうなれば細々と生き永らえる「ウェブ生物」的な生存の仕方でしかなく、各ユーザーでストックされているはずの膨大なポストを、過去に遡って無作為に閲覧することは、ほとんど無理に近い、無益な時間の浪費になりかねない行為であったりする。
そもそもマストドンは、「人に見られる可能性」はそれなりにあるのだが、それが「拡散してシェアリングされていく可能性」としては、人為的において低いのである。これって考古学的に、掘り起こさなければ誰にも発見されない遺物のようでありつつ、「全文検索」で掘り起こすこともままならないので、やはり地質時代のマストドンの骨(mastodon bones)を発見できる可能性とほぼ同等であり、なるほど、そういうことか! と変に合点がいく話でもあった。
ともかくこれが、私がマストドンを離れた理由である。
一方のBlueskyでは、全文検索機能が担保されているので、ワードから探って関心あるポストを見つけることができる。それは極めて単純でシンプルな所作であり、同じ趣味嗜好を持った方々と出会える確率は高い。そこでフォローなどし合えば、新たなコミュニティが生まれることも難しくないだろう。さすがはジャック・ドーシーさん。この点では、旧ツイッターに似ている。現に私の場合、驚くほど短期間で、マストドン時代のフォロワー数を簡単に超えてしまった。
結局、分散型SNSといっても、それぞれプロトコルの特性と運用の仕方に違いがあるので、ポストの発信力や拡散力にずいぶん影響が出てくるのだ。ただし、Blueskyのデメリットとしては、拡散しやすいために不特定多数の人が寄ってくる可能性があるということと、現時点ではまだDMの機能がないということ。どちらにしても、今後その都度改修されていくのではないかと思われる。
大企業の日産はソーシャルメディアをどうとらえていたか
少なからずマストドンと縁があった足跡を残しておきたい。
昨年、一冊の本を読んだのだった。その頃、真剣にマストドンをSNSの主力にすべきかどうか、検討のための参考資料として買った、『マストドン 次世代ソーシャルメディアのすべて』(2017年6月刊/マイナビ新書)という本である。著者は小林啓倫、コグレマサト、いしたにまさき、まつもとあつし、堀正岳。
この本は、2017年に出版されたので、みんながよく知ってる旧ツイッターとどう違うのか、マストドンがどんな仕様になっているのかをわかりやすく解説した、初心者向けの指南書なのだ。この本の第3章「日産がマストドンを利用する理由」(筆者はいしたにまさき氏)では、当時の日産自動車が、マストドンを使い始めたことに言及していてたいへん興味深い。
日産自動車は、企業として広報活動に2つの大きな目標を掲げているという。①「販売支援」、②「ブランドの向上」。特にソーシャルメディアの利用は、②「ブランドの向上」に注力する。日産のソーシャルメディアにおけるブランディングについては、以下のような分析をなされていたようである。
【ソーシャルメディアでのブランディング】
●理解度と好意度の向上のためのストーリーテリング
●リリースや記者会見といった既存のこれまでのマスコミ対応に限らないコミュニケーション
●イベントのようなリアルタイム、ライブ配信、記事、ソーシャルメディアへの投稿というフローからストックへという全体設計
●基本、毎日対応
企業が具体的にその指針を示していることに驚いた。経験則的に、ソーシャルメディアに対応する際の曖昧さを省くねらいがあるのだろう。当時のツイッター以外でのSNSにどのように向き合うべきか、そういう意味での覚書にもなっていたようである。
実際、日産がマストドンに初めて投稿したのは2017年だったという。
皆さん、お邪魔します。「人様のインスタンスにぶら下がっていながら企業公式とは笑止」と言われそうなのでこっそり様子見です。
当時のマストドンのインスタンスfriends.nicoでの日産のファーストトゥート
現況の日産が、既存のソーシャルメディアをどうとらえ、どう対応しているかについては、流動的なので言及を避けたい。しかし、上記のような具体的な指針内容――とくに《フローからストックへという全体設計》という概念については、ソーシャルメディアへの対応の基本的な考え方といっていいだろう。
場が大事だということ
残念ながら私の場合(も?)、マストドンを続けることができなかった。大企業さんと比べる余地は全くないのだが、このブログ[Utaro Notes]を多くの人に知ってもらいたい、読んでもらいたいという一つの目的を掲げているのは確かである。そのうえで、サブカル自体への関心度や解像度を高める狙いもある。
そのためには、できるだけ広く拡散できる可能性の高いSNSにしがみついていたいと思っている。公衆の面前で言葉やら視覚的なオブジェクトを晒す気構えというか責任は、決して軽いものではない。そのうえで、ストック性の高いポストを比較的容易に閲覧できる機能(=全文検索)をも保持しているBlueskyは、私にとって好都合であった。
『マストドン 次世代ソーシャルメディアのすべて』の本の第2章「マストドンによって蘇る体験」の中で、筆者のコグレマサト氏は、「大事なのはツールではなく場」だと述べている。
「マストドンが流行るのかどうか?」という質問があったとして、あまり意味を感じません。使っている人はマストドンだろうがなんだろうが関係ないのですから。たまたま、そこに「マストドン」があったというだけなのです。
『マストドン 次世代ソーシャルメディアのすべて』/コグレマサト第2章「マストドンによって蘇る体験」より引用
マストドンのユーザーが増えるということにあまり意味はないのはこれまで説明したとおりで、それはインスタンスという仕組みを採用しているからです。
インスタンスごとに分散したユーザーは深く交わることはなく、濃さを残したまま、それぞれのインスタンスで生きながらえていく可能性は非常に高いと思っています。
まさに、大事なのはマストドンかBlueskyかどうかということではなく、「私」が表現を伝えていくための「場」なのだ。もしそこで、伝達したものが共有され、結果として何らかのコミュニティといえるだけの括り付けが形成できるのであれば、ツールそのものは何でも良いのである。
それは、「目に見えるもの」とは限らないのではないか。
各々のポストが流れていくタイムラインの独特の空気感であったり、各々の発信の頻度だったり、相互のポストへの反応性であったり。それが、総体として感じられる「場の品性」であって、それが自分自身とうまく噛み合えそうだと思えた時には、コミュニティを形成できる可能性が高いということだ。
マストドンの本が、マストドン以外の選択肢を「知らしめてくれた」ことは、皮肉というよりむしろ有意義なのだけれど、さしてそこは取り立てることではない。ソーシャルメディアに自分をどう結びつけていくか、自己のライフスタイルとどう共栄共存していくかのヒントなり鍵が、見つかったからである。
それぞれのSNSには、特性がある。好みのSNSを見つけて、よりよいソーシャルメディア・ライフを楽しんでしまおう。
では、Blueskyをはじめ、それぞれのソーシャルメディアでいつでもお会いしましょう。
追記:2024年3月9日付でXのアカウントを削除いたしました。
追記:2024年7月9日付でXのアカウントを再取得いたしました。
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