『バタアシ金魚』のこと

 私が書いたウェブ小説サイト[架空の演劇の物語]の中で、ある登場人物の住んでいる町として、千葉県の「千城台」(ちしろだい)とした箇所が出てくる。
 なぜ「千城台」なのかについての理由の一つは、イングランドのニューカッスル(Newcastle)=「新しい城」にまつわる勘違いのエピソード(当ブログ「ストーンヘンジに人々は集まった」参照)に肖って、その町を設定したことを挙げておくが、もう一つは、トリュフォーの映画『華氏451』と『バタアシ金魚』の映画の個人的な影響による。

 「千城台」の町には、懸垂式サフェージュ式のモノレールが通っている(千葉都市モノレール)。トリュフォーの“華氏”には、未来都市の優雅なモノレールが映って出てくる。“バタアシ”は、「千城台」の町がロケーションであるから当然、そのサフェージュ式のモノレールが映り込んでいるのである。
 これらに共通した、モノレールというポストモダニズム的な特異な交通機関は、ある種の習俗の常識をふっとばすような情趣があって、不思議にも私の記憶の奥底に、深く留められてしまっているのだった。
 ここでは、後者の『バタアシ金魚』の映画の話をしたい。

飛び抜けた実写映画『バタアシ金魚』

 1990年公開の映画『バタアシ金魚』は、望月峯太郎(望月ミネタロウ)の同名漫画(1985年の講談社『週刊ヤングマガジン』連載)が原作で、松岡錠司監督作品。主演は筒井道隆、高岡早紀、白川和子、佐藤オリエ、東幹久、土屋久美子、大寶智子、浅野忠信。

 原作の漫画においては、私自身の記憶からしても縁遠い。
 連載されていた85年当時、私は中学1年生であり、行きつけの床屋さんの本棚に、『週刊ヤングマガジン』がずらりとストックして置いてあったことは記憶している(というか今も変わらず、店内の本棚にそれが陳列してある)。普段、私は、ヤンマガを読まない――。
 髪を切りに床屋さんに行った時だけ、自分の番がまわってくる少時間、ヤンマガを読むことにしている。この習慣は長年変わらない。いうなれば、“散髪時限定”ヤンマガ読者(ファン)なのであった。

 残念ながら、その頃の“バタアシ”の記憶は、ほとんど無い。ただし、床屋さんに行った時は、おそらく“バタアシ”を見ているか読んでいるか、していたはずである。だってそこに、ヤンマガがあるのだから。“バタアシ”の突飛なタイトルはあまりにも有名であった。

 確かに、その当時の記憶は無い。が、かなり後年、フランスのマンガ=バンド・デシネ(bande dessinée又はB.D.)のバスティアン・ヴィヴェス(Bastien Vivès)の著作『POLINA』を読んだとき、なんとなく“バタアシ”の画風を思い出したのはどういうわけなのか――。
 あとで気づくことになるが、“バタアシ”の登場人物のカオルの、あの直情的で自惚れで自滅的な性格が、フランスのトリュフォーの映画に出てくる、ジャン=ピエール・レオ演じるアントワーヌ・ドワネルの性格と多少、相通じるものがあり、いったいこれは、どんな裏が隠されているのかと思った。
 “バタアシ”のカオルなり、ストーリーなりが、フランス的な何かをカモフラージュしているとしか思えないのだが、このあたりのことについては、画風だけにとどまらず作風としても、意外なほどフランス人っぽい感覚が、作品の中のそこらじゅうに充満していることを、あえて申し上げておかなければならない。

 果たしてどんな頃だったか憶えていないが、“バタアシ”の映画のビデオテープを所蔵したまま、永らく――これも実に永らく――観る機会を得ずに、だらだらと月日が流れていった。そうして私が[架空の演劇の物語]の小説を書き上げる際に、初めて“バタアシ”の映画を観たのだった。奇々怪々な逢瀬である。観れば、それは、実に壮麗な、愉快な青春群像ものの映画であった。

 16歳の男子高校生の花井カオル(演じたのは筒井道隆)。カオルは偶然、校庭内のプールで、水着姿のソノコ(高岡早紀)と出会う。一目惚れである。あるいはこの時の状況は、“運命の人”と対面してしまった衝撃といっていい。
 そんなカオルはもともと「泳げない」=カナヅチ(本人曰くトンカチ?!)なのに、即座になんと水泳部に入ってしまう。
 理由は述べるまでもなく、ソノコに近づきたいから。ソノコと、親密な関係になりたいから――。カオルはなにかにつけ、行動が積極的で手早く、ソノコを執拗に追いかけ回す。そして、「愛している」ことをからだじゅうから発して表現する。
 これぞ、ほとばしる純愛の感覚的マヒか…。平凡な男子高校生の「清らかな純愛」といい切れるかどうか、かなり疑わしく「度が過ぎた」行動でもある。ソノコからすれば、カオルの存在は鬱陶しく、大変迷惑な男に出逢ってしまったと泣きたいくらいの気持ちであった。

 そんなソノコの気持ちなど省みず、カオルは、さらに頑なな態度で「オリンピックに出る」と宣言する。
 これはつまり、どういうことか――。
 競泳のオリンピック選手になれば、ソノコは自分に注目してくれるだろう、愛してくれるだろうという理屈。女の子の恋が、それほど単純なものかどうかはさておき、ともかくカオルは、市内のスイミングスクールに通い、特訓を開始する。

 そのスイミングスクールでは、子どもたちが必死に練習に励んでいる。そこでの女性コーチの存在がなかなか面白いのだ。
 松岡監督が書き上げたシナリオ上では、これが“スイミングスクール”とも“水泳教室”ともなっていない。「ババアのプール」となっている。ババアのプール! ちなみにフランス語では、“la piscine de la sorcière”という。
 原作の漫画を読んだ人ならわかるが、水泳教室のおばちゃんコーチなのだけれど、カオルはこのコーチを、吐き捨ててババアと呼ぶ。ババア――すなわち白川和子さんが演じるおばちゃんが、カオルの鬼コーチなのだ。
 しばしこの二人は、えげつなくいい合ってののしりあうが、本当のところでは仲が悪いわけではなく、心が通い合っている。カオル曰く、俺がオリンピックに出られるかどうかはおまえ(ババア)の責任だ、おいババア、ちゃんとしっかり俺をコーチしろ――。
 カオルとババアの丁々発止の緊張感とユーモアが、“バタアシ”の真骨頂であるといっていい。実をいうと、まだあどけないデビュー当時の筒井道隆さんの、演技力が覚束ない硬軟揺れ動く体当たりの表現は、原作のカオルと同化し、独特な味わいのある高校生役として輝いている。無論そこに、若きマドンナである高岡早紀さんのシャープな存在があってこの映画は成り立っている。

男と女の恋愛はどこで燃え上がるのか

 ソノコが、母親のまさえ(佐藤オリエ)と会話する食卓シーンがある。一瞬、聴いてて驚いたセリフがある。
「カオル君と、うまくいってないの? 仲々男らしくて、いいじゃない」
 母親のなにげない質問に対して、ソノコがこういい放つ。
「アイツはね、女のくさった奴のケツふく紙よ」

 女のくさった奴の、ケツふく紙…。これをフランス語では…いや、やめておこう。なかなかこんなセリフは、いえたものではない。
 重箱の隅をつつく話、もしこの中のスタッフが、高岡早紀の俳優としてのイメージを死守するために、監督、このセリフ変えてもらうわけにはいかないだろうか、といった内々の相談ないし打ち合わせがあったとしても、不思議ではない。実際はどうか知らないが、見事なまでに、ソノコ演じる高岡さんは、このセリフを完全無欠にいい放っていた。このケツふくなんとかの文句が、“バタアシ”の映画の、パブリックなキャッチコピーにすらなっている。なんと90年代は恐ろしい時代なのだろう。

 私は先に、フランスのトリュフォーがどうしたの、ドワネルがどうしたのと述べたわけだが、ソノコのいい放ったあのようなセリフの表現は、丸々、フランス人が恋人を侮蔑する語としては、艷やかな域を遥かに超えてしまっている。しかし、それもどうか。この点について、専門家である蓮實重彦氏に訊いてみたいくらいである。
 ただし、もし20世紀の戦時下のアルデンヌで、進軍著しいドイツ兵に対してフランス人の住民が放った言葉として考えるなら、それもよかろう。ソノコのあの短いセリフのいい回し――ケツふくなんとか――は、多少、真実味があるかと思われる。

 それくらいに、奥ゆかしい日本人の常識的な行動様態から外れて、カオルのソノコに対する諸々の態度は、男子高校生とはいえ、ゆきすぎてしまっており、反射的にソノコも苛立ってしまっている。果たして、彼らの恋愛はいったいどこで燃え上がるというのだろうか。
 俺がソノコくんをこんなに愛しているんだから、それと同じくらいにソノコくんも、俺を徹底して愛してくれないと困るのだ、という話。これはなんとなく、フランス人の若者っぽい解釈ではある。しかし、そんな話が、日本人の奥ゆかしい、女子学生のスカートの丈が地上から何センチまではオッケーか? などで議論を深め続ける社会でまかり通るはずがない。

 松岡監督は映画化に際して、原作における「いくらなんでも」という部分については削除し、登場人物たちの言動及びストーリー全体は翻案し直している――とかつて語っていた。『キネマ旬報』の採録記事の中で、松岡監督の「カオルの恋愛(観)」について語る一片がある。

 僕はあれは自分の問題として映画にしましたから。(略)僕は僕の問題を扱ったつもりです。だから、ああいうふうにありたいという気持ちもあります、当然。ただ、あの行動はまずとらないな、きっと。でも気持ちはありますよ。(略)そこをぽーんといってる僕のヒーロー像というのがある。それは花井カオルに託しました。

『キネマ旬報』1990年6月上旬号/No.1035より引用

 カオルの直情的な表現は、角が立ち、女性の心理を過剰に混乱させるだろう。原作者の望月氏の表現は、漫画としての描写そのものが、過剰というか過激である。しかし、それについては松岡監督は暗に、映画としてふさわしくないし表現しようがないので削除した旨を語っている。しかるに、“バタアシ”の本道はあくまで、「少年の恋」であり、「少女の恋」なのである。
 直情的ではあるにせよ、カオルの恋はわかりやすい。すっきりと見える化されているし、危険ではあるが、認識しやすい。それに反して、「少女の恋」すなわちソノコの恋(模様)は、非常に見えづらいしわかりづらい。いわばそれが、“バタアシ”の深みにはまる沼のような構図なのだけれど、ソノコは、真っ向から否定していたカオルの存在を、いつしか次第に、自分でもよくわからぬうちに、否認できなくなっていった、あるいは仄かに受け入れていったと考えればいいのだろうか。

不可能なカッコ悪さ

 ソノコ自身は、外面としては怒り狂いながらも、内心は悩み、戸惑っている。食事の量が増え、ぶくぶくと太ってしまい、家に引きこもって学校に行くこともできなくなってしまう。この過食症的な状態は、嫌なストレスによって生じたものなのか、それとも、混迷極める恋煩いの前兆あるいは副作用と考えるべきなのか、私にはヒトの生理の根本的なことまでよくわからない。
 一方のカオルは、当初から、「オリンピックに出る」と無理筋をいっている。それが、ソノコの気をひく目論見であったとしても、論理的に考えてその目的到達への意味合いは、かなり薄いのだ。
 つまり、カオルがオリンピックに出ようが出まいが、ソノコにとって、それと自分の心の問題とは無関係だからである。尤もその道理が、カオルにはわかっていないのだけれど、男性性としての欲求の直情性は、傍目で見て、これを素直に否定できない面がある。やりすぎる面があるにしても――。男なら誰しも経験上、カオルの行動に対して、納得してしまうものがあるだろう。彼のそれは、一種の極端な例の恋愛病だから。

 金魚は所詮金魚であって、クジラのようにゆうゆうと泳ぐことも、トビウオのように水面から飛び出して泳ぐこともできない。金魚は泳ぎの達人(達魚?)であるかどうか知らないが、バタアシの、バタバタ泳ぐ金魚の姿が、絶対にかっこいいはずがない。
 この映画を観ていて、思わず涙が出そうになるのは、オリンピックに到底出ることさえ不可能な、不埒なモヤシ野郎の男が、恋に関して一気呵成たらんと努力する、場合によっては虫になってしまう、そのもの自体のカッコ悪さだ。しかしそれが、どだい人間なのであって、私は健気でかっこいいと思うのだ。《ぽーんといってる僕のヒーロー像》だと、松岡監督は述べているが、私も同感である。

 『バタアシ金魚』のゴリゴリした感覚を味わって、なにかに打ち込みたいという気がしてきた。私も。もうそんな悠長な歳ではないのに、と思う反面、まだまだ、という気がしないでもない。それがどうしたというのですか?――という批判の声が上がりそうだが、とにかく、不可能なカッコ悪さを目指して、私も全力で生き抜きたいと思う。

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