昨年の秋、驚くべきニュースを読んだ。
米ニューヨークの連邦地検は22日、カジュアルブランド「アバクロンビー&フィッチ」のマイク・ジェフリーズ前最高経営責任者(CEO、80歳)ら3人を性的人身売買などの罪で逮捕、起訴したと発表した。
2024年10月23日付毎日新聞より引用
アバクロンビー&フィッチ(Abercrombie & Fitch)。通称アバクロ。アバクロは1892年創業の、古き良きアメリカ文化の行動派をうならせたカジュアル・ウェア・メーカー。あのヘミングウェイが好んでショップに訪れていたとも知られる。そのアバクロの前CEOが、性犯罪で逮捕され、起訴されたというのだ。
マイク・ジェフリーズ(Mike Jeffries)は、ロサンゼルス出身の80歳(当時)で、パートナーであるマシュー・スミス(Matthew Smith)らと共謀し、元モデルの男性(被害者)に対し、性的搾取をおこなった疑いが持たれている。ニューヨークなどの高級ホテルで男性らを性行為イベントに参加させたとも。被害者はおよそ100人以上の若い男性(モデルや従業員)たちであり、性行為を強要して仕事や金銭、麻薬の取引をおこなったという。
きわめて重い罪であるために、今後の裁判の行方に刮目したい。詳しい事情はあまりわからないが、現段階ではあくまで起訴なのである。
ほとんど冗談に聞こえるかもしれないが、穿いていたパンツをするりと脱いだ。穿いていたのはアバクロのアンダーウェアだったからだ。被害者の心情を考えれば、とりあえず脱いでおく方が賢明かと思った。
「人新世のパンツ論」のプロモーション映像
このたび、「人新世のパンツ論」のプロモーション映像(55秒)を作ってみました。配信いたしております。
これね、パンツを破り、新しいパンツに穿き替えるという展開なんです――。
このプロモーション映像は昨年中に撮影をおこなったのである。
実をいうと、前述の話の続きではないが、“アバクロのパンツを破り棄てるヴァージョン”も撮影してみたのである。〈これは辛辣な風刺になるぞー〉と鼻息を荒げたのだが、ボツにした。何の確信事項もなく感情的にアバクロを非難するのは、やり方が悪く愚直すぎるし間違ったことにもつながりかねない。
なので、“アバクロ・ヴァージョン”はボツ。
だが、破り捨ててケツが丸見えになるのは、なんともエロティシズムを掻き立てるものがあると思い、それ自体は採用した。私がやるべきことは商品を売ることではなく、あくまで下着について考察することだから。哲学することだから…。
そういう意味では、プロモーション映像としての真価は果たせたのではないかと思っている。ぜひご覧になっていただきたい。
心の底からありえないと思うパンツ
長々と、このシリーズではパンツについて語ってきたつもりである。私自身、様々なパンツと出合うことができた。たいへん貴重な体験をしたと自負する。
忘れもしない「人新世のパンツ論⑫―ゆとれぬパンツの危険な冒険」における、かなりアブナイ企画であった「限界パンツ」への挑戦。ここで改めて注釈しておくけれど、「限界パンツ」とは、男性部を保護し隠しうることのできる、最も小さな布切れの限界面積(容積)のパンツを指す。むろんこれは、私が勝手に命名しているだけなのだが。
フンドシはおろか、スーパービキニをも超えるミニマムなパンツは、ナニを保護しうるのか。基本的な機能でさえ蹂躙し、逆にナニを隠しきれていないのか――といった、実にエロティックな危なっかしい冒険譚であった。それはつまり、恋人や妻のチラ見者に奇妙な疑惑を抱かせ、網膜のカオスからパンツとしてのセオリーを爆殺するだけの威力はあったと思われる。
とはいえ、パンツの「小ささ」以外に、その「形状」においても、これはどう考えても限界、不自然、不可解、キモいよね――と思えるパンツと出合うこともあった。これもボツにするかどうか迷ったが、もう思い切って、それらをここに並べてみることにしよう。
あるパンツは紐状で肩まで釣り上げるタイプのもの。あるパンツは、まるでサンマ漁で使う網のごとく、獲れたての活きのいい稚魚がかわいらしく見える網状のパンツ。あるパンツは、腰を覆う帯部分が全く無いもの。それから、片方の帯紐だけで、もう片方が全く無いもの。もうひとつは…。もうどなたも感想を述べないでいただきたいのである。
こんなパンツを穿いていると、普段穿いているパンツがなんとも地味な、平凡なものに見えてくるから不思議だ。例えばシースルーにしたって、その透過性は実に様々。透けて見えそうで実際は見えないもの、透けなさそうで透けてしまっているもの、それ以外に、完全無欠なシースルーのビキニにおいては、どう目を背けても見えてしまっているもの…もあって、世界は広く、地球人のオトナはなんてバカなものを発明しているんでしょうと涙が出てくるほどに、そうしたアイテムに思わず感動してしまうのであった。
いくら男性だって、そんなパンツは絶対に穿けないよ。玄界灘、じゃなくて限界ですわ。
堪えられなかった全裸態
限りなく全裸に近い状態を観察するにいたって、初めてパンツの素晴らしさに気づく。
昨年11月の初回「人新世のパンツ論①―プロローグ」の中で、作家・朝井リョウ氏が述べたことをもう一度思い出してみよう。
要約するとそれは、「全裸でよろしい国なら、私は服を着ない」ということであった。服の選び方が独特になってしまうがゆえに、他人に笑われるくらいなら裸でいたい――とする話はたいへん面白く、ユーモアとしては抜群の軽妙洒脱で心に響く。
個人の空想においては、「市民の全裸区」という江戸川乱歩的社会秩序は許されるが、現実的な例としてのヌーディスト・ビーチという許容範囲を超えて、21世紀の国家社会では、依然として良識的な生活慣習としてそれで納得感が得られる国は、ほぼ無いであろう。しかしながら考えてみて、「市民の全裸区」での日常生活は、本当にそれほどお気楽なものであり得るのか。
ヌーディスト・ビーチであっても、私個人は堪えられないでしょう――。
17年前、山梨県小淵沢の「道の駅」を訪れたことがある。
山林に囲まれ、とても長閑なスポットだった。
すぐ側に、「延命の湯」という温泉施設があった。私はそこに行き、温泉でくつろごうではないかと思い立ったのだ。ところが…。
どういうわけだか私は、そのとき疲労のせいかなにか、ついうっかりレンタルのタオル(バスタオルとフェイスタオル)を受付でオーダーしなかったのだった。あろうことに。そうするといったいどういうことになったか。
手で股間を押さえ、全裸態で浴場の中に進む。それはまあいいでしょう。そうして洗い場に進み、体をまず洗うわけだ。
そのあと湯に浸かる。
いたってなんの問題もないじゃないか。しかしだ。問題はここからだ。湯から出て、濡れた体や髪をどうする? 拭くものが無いじゃないか。
まさか、目の前のおじいちゃんのフェイスタオルを借りるわけにもいかないだろう。
むろん、更衣室に戻ったところで――というか戻るしかないのだが――拭くものがない。バスタオルはどこにも置いてないのだ。なんで受付でちゃんとタオルもらわなかったんだよう。私は茹で上がったイカのような心境で時間をつぶすしかなかった。体全体が乾くまでのあいだ――。
この間、私は広い更衣室でずっと全裸態なのであった。早く体を乾かして、下着を着たいよねえ。
しかし、なかなか濡れた体というのは、すぐに乾くものではないのだ。目の前にドライヤーがある。あれを当ててみようか。ヨタヨタしているおじいちゃんが一人二人いるだけならできるかもしれないが、サラリーマンとおぼしき若い男性もいるよなあ。うーん、奇妙な行動はできないじゃん…。
もうすでに、奇妙な行動なのであった。ただぶらんぶらんとしたまま、全裸で突っ立っているだけなのだから。はて、体が乾くまで、髪が乾くまで、どれほどの時間を費やしたか憶えていないが、人のいる前でぶらんぶらんとしているのは、なんとも恥ずかしいし落ち着かないものなのである。
このとき初めて、パンツを発明した人類は偉大だ、ということに気づいたのだった。
パンツを穿かせたい死神アップル
全裸態で思い出したのだが、昨年末、『週刊少年ジャンプ』(2025.2号/集英社)で「APPLE」という漫画を読んだ。
「約ネバ」白井カイウ×「アナノムジナ」天野洋一!
『週刊少年ジャンプ』2025.2号「APPLE」より引用
超豪華タッグが贈るノワールアクション奇譚
読切C(センター)カラー49P!!
《その背に呪いを宿して――》というキャッチーな標題で目を引き、読んだところたいへん面白かったのだ。神様の泉から生まれ出た全裸の主人公・死神アップルが、ある者への復讐に燃える…。読み切り漫画の単発作品だったので、再び目を通すことは難しいかもしれないが、どういうわけだか私は、この全裸の死神アップルに、かっこいいパンツを穿かせてみたい、と思ったのである。
タトゥーだらけの体に合うパンツは? と考えたら、案外、TOOT(トゥート)のチョップスターが似合うんじゃないかと思った。
いったいパンツはどこへ向かうというのか
幼児や10代の子どもらが衛生上、又は教育上穿かなければならないパンツやらと、大人がそれらの要件に加えておしゃれを楽しむためのパンツとは、えらく意味からして違うといわざるを得なくなった。
問題は、自分の稼ぎの中からおしゃれにかける費用を捻出して楽しむことができる大人たちが、皮肉にも子どもに対してたいした小遣いを与えずに、どうしてもっと好みのアンダーウェアでおしゃれを楽しまないのか、ということである。いつも同じ感じのトランクスであったりボクブリを、ずっと永年考えもせず穿き続けてしまっていて、また同じユニクロですか、また同じグンゼですか、それを穿いておじいちゃんになるつもりですか。あなたの股間をほったらかしにしたまま、マダムのことも考えずにそれでいいんですか。
JOCKEYパンツはかっこよかった
以前、「人新世のパンツ論⑤」で、JOCKEY(ジョッキー・インターナショナル社)の歴史的な「Yフロント」(Y-fronts)を紹介した。あれはデザイン的にも優れた画期的なブリーフであった。
1960年以降、ジョッキー・ブランドのブリーフの一端は、さらなるローライズ化、あるいはスーパービキニ化といったミニマムへのコンセプトを形成し、男性下着のいわばセクシー路線の新たな時代を切り開いた。
そうして私が思ったのは、ブリーフのミニマムへの追求は、どこかしらで限界が生じるのではないかということだった。いいかえると、男性部を覆う布切れの最小面積あるいは容積は、おのずと決まってくるのだから、ミニマムというおしゃれの追求はそこで打ち止めになるだろう。あの時代以来パンツのデザインは、すでに出尽くした感があるのはそのせいだ。
ジョッキーのスーパービキニを入手してから、私はもう「Yフロント」のブリーフが好きで好きでたまらなくなってしまった。実におしゃれである。セクシーであり、キュートである。
次にB.V.D.のスーパービキニを穿いてみたら、これもまた素晴らしい。ちょっとスポーティーな雰囲気を醸し出していて、セクシーというよりかは硬派な男性の色気を感じさせてくれる。
「人新世のパンツ論」をやるようになって、常に新しいパンツを穿きたいと思うようになり、また同時にボディケアも試みるようになった。
敢えていうが、股間のボディケアは怠らない方がいい。
というか、ほったらかしにしていてはダメなのである。ボディケアをすることによって、自身の身体的なモチベーションがアップし、日々の生活が楽しくなる。体からソープの香りがするだけでも、その意味合いは大きいと思うのだ。清潔なボディは、自分のみならず、パートナーを安心させ、何よりお互いの体は、「共用」でもあるのだから。
好きなパンツを見つける旅に向かって
さて最後。パンツはどこへ向かうのか。
それは結局、あなた自身に向かい、あなたの未来にも寄り添う――というか、むしろパンツがあなたの未来を決めてくれるのではないだろうか。あなたがパンツと向き合えば、パンツもあなたをおしゃれにしてくれる。そう思っていて間違いない。
インスタグラムを見れば、若い人はみんなかっこよく着こなしていて、おしゃれだ。とてもかなわない。だけれど、清潔であるという点においては、負けるものではない。怠らなければ。年齢を問わず、あるいはどんな体型であっても、清潔さにおいてそれをケアすれば、それ自体おしゃれそのものなのである。
決め手は、パンツ。勝負はパンツ。
今日はどんなパンツを穿くか。あなたの気分で、好きなパンツを選べばいい。それだけのこと。きっと新しい世界が待っていることでしょう。ぜひ、挑戦してみてください。
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それでは、長々と「人新世のパンツ論」ありがとうございました。これで本当に終わりです。あなたの“パンツを見つける旅”のご健闘をお祈りいたします。
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