朝井リョウさんの各各の書評から

 昨年11月に朝井リョウさんの小説『生殖記』(小学館)を読んだ。《「正欲」から3年半。本年度最大の衝撃作》の帯の文言が未だに脳裏に刻み込まれている。読み終わった後の思い――それを一言で「感嘆」――と称すると、やや誤解が生じてくるので、ここはずばり、「落胆だった」と述べる以外にないのであった。

朝井感

 11月は私にとって急激な変化を伴った月で、感情を噛みしめぬうちに、勢いで走り抜けた感がある。
 前段となる「私は朝井リョウの『生殖記』を読み始めるというのか」を書き上げたその日、偶然ながら、人生を共にできると信じていた“最愛の人”が、異国へ帰るために会社を退く――という突然の出来事で面食らう。これは小説の話ではない。私の私生活における出来事である。この数日後、『生殖記』を読了する。
 翌週には母親が、数日前に怪我をしていたという部位が激しく痛み出したようで、救急車を呼んで入院の手筈を余儀なくされる――といった騒々しい突発的な出来事も起きた。私の頭の中があちらこちらに移って混乱する。明らかにノイズである。動揺はしていないつもりだったが、落ち着く暇が全く無かったのだった。

 病院の待合室で過ごした1時間以上の待機状態に、ふと思ったのだ。いったい何が災いしたというのだろう――と。

 私の心が、砂塵のように舞い上がり、もはやとらえどころが無くなった気がした。
 そんなめげそうになる日々の中で、ちょっとこれから朝井さんの新作は心情的に読めなくなってくるのかな、という懸念が生じていた。「事実は小説よりも奇なり」というが、小説は小説らしく――ではなく、その小説という生態系の中から、自己が裸体となって呼び戻されてくるような小説を、私はいつも待ち焦がれているのだった。

朝井リョウ著『ままならないから私とあなた』(文藝春秋)の同本編を読了。かなり濃厚にノスタルジックな趣で、平成中頃の小学生時代から、ほぼ現代に大人となって成長した“二人の女の子”の話。何事もずっとふくよかに受け入れていたい女の子、何もかも合理的に効率よく生きていきたいと考える親友どうしが、親しいからこそぶつかりあってしまう悲劇…なのか、それとも克服への途上なのか。これは朝井さんらしい面白い小説。

Utaro/青沼ペトロのBluesky2024年12月26日付のポストより引用

 おもむろに朝井さんの単行本や文庫本を片付けだし、整理する。
 残ったのはたった1冊だけ。『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社)。この本を読み返すのはいつのことになるのだろうか。

『列』の読後感の朝井評

 『週刊文春』(文藝春秋)の連載「私の読書日記」は、6人の著名人が交代で毎週執筆する書評コラムである(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川宏満、橋本愛、朝井リョウ)。2025年1月16日号はちょうど朝井さんの執筆だった。

 表題は「再生を繰り返す」。
 もう朝井さんの文章は心情的に読めなくなるのではないかと思っていたが、なんてことはない、朝井さん執筆本文(全2ページ)がすらすらと読めたのである。この調子なら朝井さんの新作の長編小説だって読めるじゃないか。だが、そのことは一旦、脇に置いておくことにする。

 朝井さんは5冊取り上げて書評していたのだった。そのうちの1冊が、中村文則著『列』(講談社)。もう1冊は平野啓一郎著『富士山』(新潮社)。

 それらの書評を読んで、それぞれの小説自体が盛んに読みたくなったのは事実である。ただ、当面次の一手の行動は先に延ばすとして、今は朝井さんの書評のみで想像を巡らせ、その世界に陶酔したいと思ったのだ。
 中村文則著の『列』について。朝井さんはこのように述べている。
 《その本を通過する前と後では、自分自身なのか世界のほうなのかそのどちらもなのか、とにかく何かが変わってしまうという小説がある》――。主人公が列に並んでいるという。先頭も最後尾も見えないらしい。当人が何のために並んでいるのかさえもわからない。朝井さんは自身の読後感をこう述べる。

一欠片で何トンもの重量を持つ未知の素材を押し付けられたような、この状態でまたこの世界を生きていけというのかと途方に暮れてしまうような、そんな気持ちにさせられた。

『週刊文春』2025年1月16日号「私の読書日記」より引用

 読んでみなければわからないというのが私の正直な気持ちではある。が、なんとなくそういう小説に出合ったときの心境というのは、おそらく混乱と驚愕と生々しい刹那とが相まって、震えに近い戸惑いであろうことは推測できるのである。
 それにしても、重たい未知の素材を押し付けられ、このままの状態でこの世界を生きていかねばならぬことに途方に暮れる――とは、凄みのある表現ではないか。いったいどういうものなのだろうか。

 それはこんな物々しさかもしれないと思った。

 ある程度こうなのだろうと確信していた限りにおいての世界観が――いや、人生観といってもいいのだが、それを知ったことによってくつがえる。がらりと一変してしまう…。
 例えばその状態で翌朝出勤したときの、なんとも居心地の悪い不均衡な心持ち。揺れている列車と体が同調し、どこへ行ってしまうのかわからなくなるような不穏な身体感覚。
 自分自身を落ち着かせようとしても、一度変わってしまった視界は元に戻らない。そこから先の視界は、透明なのか闇なのか。果たして自分は、昨日も今日も同じ場の足下を踏んでいたのだろうかと思うほどの不安――。
 列に並んでいる主人公が、《先頭も最後尾も見えなければ、いつから並んでいるのかも何のために並んでいるのかもわからない》のだ。そんな小説の不文律は、読者の既視感を根本から揺るがすに違いない。

平野啓一郎の『富士山』

 『富士山』の書評についても加えておく。
 朝井さんはこんなことを書き出している。平野氏いわく、

最近、偶然というものに対する世の中の感受性が鈍くなっている気がします。昔のほうが、例えば書店で面白そうな本を見つけるとか、たまたま目にした広告に惹かれてモノを買うとか、社会全体が偶然性に期待していた。

『週刊文春』2025年1月16日号「私の読書日記」より引用

 《そういう偶然性に期待していた》のではないかと、朝井さんは書き連ね、「偶然性」を仮にノイズとするならば、現代人は自己の人生の文脈から外れたノイズを受け入れるような余裕すらも、持ちづらくなっているという三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)から、平野氏の論考と併せてくみ取っている。

 人生の文脈から外れたノイズ=「偶然性」を受け入れる度量の無さが、言語の論理的な解釈をひもとかないことにもつながる。偶然に起きたのではない、全てが一定の動機と企図から連なっている…それはつまり、陰謀だと――。
 ルーレットを回す。偶然にして、「3」が3度連続して出たとする。3、3、3…。これも何かの陰謀だ――ということになる。陰謀論はこのようにして、あらゆるノイズの霊性や政治性を裏付ける根拠となり、禍々しい悪夢としてシェアされていく。

§

 こうして朝井さんが熱烈に書評を書いた。「私の読書日記」を読んでいなければ、私は中村文則氏の『列』の中身を想像するに至らなかっただろう。平野氏の『富士山』もしかり。
 たちまち、それらが読みたくなってきたのは事実である。しかしながら、いや、当分その一手を控えるべきか否か迷う。
 皮肉にも、『列』を読んで朝井さんと同様に、重たい未知の素材を押し付けられてしまうのだとしたら、もう完膚無きまでに朝井さんの小説が二度と読めなくなるのではないか、という気もしてくる。果たして、そういう方向で宜しいのか。

 宜しい…というなら読んでもいいのだ。これも何かの陰謀だというのだろうか。

 作家が書評を書いたりすると、書いた作家の作品が読めなくなることだって、あり得るのだ。むろんそれは、冗談だといいたい。
 しかし、そうともいいきれないではないか。どんな偶然だって、私は受け入れたいと思っているのだから。既に私の手元には、『死にがいを求めて生きているの』の1冊しかないのだから。

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