岸本佐知子さんの日記めいたものから摘まむ

 既に私のアカウントのBlueskyでは記しておいたのだけれど、当ブログ1月7日付の「ヒッピー&ハイパーな睦月の始動」でのiMac(G3初期型)入手の件、この投稿2日後に家に届き、ライムカラーの重いモニターを眺めて目下“仏像然”としている旨、ご報告しておく。興福寺の阿修羅像に見えるかといえば、そんなかわいらしいものでもないということをお伝えしておき、以後、お見知りおきを――。

 私は日記をつけていないので、こうした過去の経緯の仔細をたどるには、先のBlueskyだとかのSNSのログをチェックする以外にない。撮った画像の日付なども参照すればわかる。
 高校生の時、30代の頃にはそれぞれ日記をつけていた。30代から40代中頃までの日記のデータは、一昨年くらいまでは参照できたはずである。それらを含めて、全部断捨離してしまったから、今となってはSNSのログをたどる以外に方法はないのであった。むろんそれが完璧な日記ではないことは承知の上だ。

 当ブログでは毎度おなじみ――となりつつある、翻訳家でエッセイストの岸本佐知子さんも、何やら意味深に日記をつけていたらしい。筑摩書房のPR誌『ちくま』2025年2月号(No.647)の連載「ネにもつタイプ」の書き出しが、妙に謎めいているのである。

 必要があってしばらく日記をつけた。それをまとめたあと、ポロポロこぼれ落ちたメモや出来事をここで供養する。

『ちくま』2025年2月号、岸本佐知子「拾遺」より引用

 そう、「拾遺」というタイトルもまたシュールである。もれたものを拾い集めたもの、という意であろうが、日記を書いてポロポロとこぼれ落ちたものを拾って供養する――という解釈は、並大抵の人の発想ではない。日記を書いててポロポロとこぼれ落ちるものなんかないでしょう、とつい思ってしまうのだが、どうもきな臭い。

岸本佐知子さんのこぼれ落ちた日記

崩れたタワー

 某月某日のこんな日記が気になった。

獰猛に吠えつくドーベルマンの群れに追いかけられ、必死の反撃をこころみて拳骨を振りまわしたらその手にがぶっと噛みつかれ、あわてて犬ごと地面にバンッと叩きつけたところで目が覚めたら、ベッド脇の積ん読タワーが粉砕されて床に散逸していた。

『ちくま』2025年2月号、岸本佐知子「拾遺」より引用

 最近、年配の知り合いの人が見たという夢の話をさんざっぱら聞かされて、唖然としたのを思い出した。
 その人の亡き肉親が出てきた――というところまではいいのだが、なんと私がその夢に登場してきて、ホテルのレストラン内で若い外国人とカップルの私が、背後のテーブルに盛られていたポタージュだかミートソースのパスタだかの汁で尻が汚れ、イチャイチャしていた――だのと興奮してしゃべりまくられ、こちらはえらい恥をかいた気分になった。

 だがまてよ、そもそもその人が勝手に見た夢の中の話であって、私が恥をかく義理はないではないか――とを悟ったのだった。相手が鼻の穴をぐぁぐぁと拡げているのに対し、私は顔を赤らめている。なんて不条理なんだ。夢とはそんなふうにデタラメで脈略がないのだ。

 岸本さんの夢のドーベルマンが何かしらのメタファーであるとか、その犬とけんか腰になったのは下等な動物に対する暴力的な侮蔑であるとかどうとかの、ヘンテコな理屈は通用しない。夢は夢であり、どんな夢であろうと見るのは勝手、自由。誰がすっぽんぽんであろうが誰とセックスしようが、獣姦だってかまわない。それ自体に意味は無い。構成も脈略も何の意味も無い。ただ断片的な像の順列というだけで、それらがぽつぽつと浮かんできただけの話である。――と思いたい。
 ただ、夢の中の動作が勢い余って本当に現実に体が動いてしまうことは、よくある。
 岸本さんのように、夢の中で腕があまりにも暴力的に動いてしまった結果、現実の世界の周囲にあるものを潰したり壊したり落としたりすることがあるのだ。岸本さんの場合、それは“積ん読タワー”だった。
 私もそれをやった苦い経験がある。いみじくも夢と現実は驚異的に同調していて、足で思い切り蹴飛ばして本が崩れ落ちたのだ。夢は所詮夢だが、本が崩れ落ちたのは夢ではなく、事実、現実のことなのである。

おいしくないナポリタン

 某月某日のこんな日記が気になった。

運動不足解消のために歩いて少し遠くのおしゃれカフェに行き、おいしくないナポリタンとおいしくないサラダと薄いハイボールを飲む。

『ちくま』2025年2月号、岸本佐知子「拾遺」より引用

 俵万智さんの短歌「サラダ記念日」とは真逆の、「おいしくないね」と君がいったから某月某日はサラダ記念日――みたいな話で面白い。

 いや、おしゃれカフェに行ったと書いたら、ふつう、ハイボールは美味かったねとは書くだろうと思うのだけれど、運動のあとにナポリタンも食い、サラダも食い、それが「おいしくない」と思っても、並大抵の人だったら書かずにおくでしょ――と思うのだ。ジョギングのあとにナポリタン食うか? と、突っ込まれそうな唐突感である。

 でも、高齢者が運動がてら、わざわざ遠くのスーパーに買い物に行くというのはあるらしい。家の目の前にスーパーがちゃんとあるのに、近すぎて散歩にもならないというので、遠くの店に歩いて行くのである。

 私は散歩がてら、近所の酒屋に行き、どこにでも売っているサントリーの角瓶を買って帰ったことがあった。そうして通り過ぎるドラッグストアを横目で見、正真正銘の酒屋で買った角瓶のほうが美味いのだよ――と念じるのである。
 実際、どこで買っても角瓶の味は変わらない。
 味は変わらないにせよ、酒屋のオッチャンが生き永らえているあいだ、〈此処の酒屋のカクビンはカクベツ美味いんやー〉と思いたいのだ。私も堂々、生き永らえるつもりである。

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