読書の秋に思うこと

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2009年9月23日付「読書の秋に思うこと」より)。

 来週は広島へと旅行するので、ここ数日間、スーツケースの中の荷物を用意したり整理したりして旅の空想に浸っています。
 いわゆる随筆集の小冊子である岩波書店発行の『図書』は、私の旅のお供をする必須アイテムになっていて、電車の中で随筆を読んだり、岩波書店の新刊・既刊の目録から欲しい本を探したりして、旅先の書店へ駆け込む重要な情報源なのです。
 私が個人的にインターネットを利用し始めてもう10年以上経過していますが、インターネットが読書に与えた影響ははかりしれません。
 例えば、一つの本を読んで何かしらの着眼点を発見し、メモをとる。インターネットがなかった時代(学生時代)では、ここでしばらく――いや、とんでもなく長い時間――メモはメモのまま沈滞してしまう。ところが、ネットがあるとそこで沈滞せずに検索をかける。すると新たな発見があり、別の本や人物に着眼してしまう。モノと人との情報が次々と繋がっていくので、発見は際限がなくなる。結果、読む本が何倍も増えていくのです。
 私が最近読み終えた本、村山富市・佐高信著『「村山談話」とは何か』(角川書店)の中で、〈穂積五一が主宰する至軒寮〉という記述に目が止まりました。私はここで「至軒寮」に興味を持ったのです。あの「村山談話」が生まれる背景には、当然、村山富市という人の生い立ちと経歴が底流としてあるわけですが、彼がその至軒寮にいた、というのであれば、そこでどんなことを吸収したのだろう、という興味と関心が生まれます。
《東大教授で憲法学者の上杉慎吉が大正時代に創立した私寮…》
《穂積五一が引き継ぎ、寮長となった…》
 至軒寮は今の新星学寮ですが、「天城山心中」だとか「穂積精神」「アジア」などといったキーワードに次々と繋がっていきます。こうなると、単純な興味の発端はやがて複雑細分化していく“調べ”となり、興味と欲求が尽きるまで、枚挙にいとまがありません。
 言葉の繋がりはモノや人との繋がりである、ということを考えると、読書における小さな叡智は、紙一重で毒にもなり幸福にもなるのではないでしょうか。

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