※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2010年5月26日付「目白台界隈を歩く」より)。
【目白台・関口三丁目付近】 |
東京の町を散策するのはとても楽しいものです。歴史が積み上がっている、という点では、当然どこの町もそうであるけれども、積み上がる細かな過程の部分が、あらゆる情報に晒されている点で、やはり東京は、地方の町とは楽しめる度合いが変わってくるのです。
一昨日、目白台のあたりを歩きました。護国寺駅から地上へ出て、音羽通りを関口三丁目方面へ。しかしそれにしても学校が密集している町、という印象です。お茶の水女子大、筑波大学附属、東京音大附属。東京カテドラルのあたりの目白通りへ出るまでに、獨協の学校と幼稚園も見たはずです。閑静な高級住宅密集地と学校という組み合わせは、東京ではありふれた風景なのかもしれませんが、それでもやはり際立っている感じがします。
昭和6年の古地図を見ると、お茶の水女子大及び筑波大学附属の場所は、陸軍の兵器庫だったようで、かなり広大な面積だったことがわかります。といっても、この界隈の区画は当時とほとんど変わっておらず、カテドラル(=旧・天主協会)があって戦火を免れたせいなのかどうかはわかりません。ただし聖堂は戦災で焼失し、戦後になって新しい聖堂を建てたようです。
永青文庫のある地域を境に、現在では東側が関口二丁目、西側が目白台一丁目となっていますが、昭和6年当時は関口町、あるいは関口台町となっており、“目白”という地名はこの周辺では出てきません(現在の目白通りは当時も目白通りという名称だったのでしょうか?)。ちなみに、関口台町の西は老松町、高田豊川町です。
【長閑な午後の関口台町】 |
目白通りを日本女子大の方へ向かって歩き、公園のあたりで南へ折れる坂を下ると、神田川が流れる道筋に出ることができます。昭和6年で言うと老松町と関口台町に差し掛かるあたりでしょうか。このあたりに江戸時代には細川家の下屋敷があったはずです。ちょうど昼頃に歩いたのですが、まったく静かなところでした。
神田川を渡る小さな橋があります。駒塚橋です。その反対に胸突坂という坂があって、これを上がると永青文庫があるのです。
この界隈の漂うある種の気品と、細川家が代々伝えてきた文化のそれと重ね合わせると、見事に一致するのは単なる偶然でも何でもなく、町の文化は人と人、家と家との文化の縫合である結実によるものだからでしょう。
歴史の積み上がり方とその地域の文化の形成とは、切っても切れない関係にあり、幾十にも折り重なった町民の真髄を感じさせてくれます。
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