福島原発事故を考える

※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年6月12日付「福島原発事故を考える」より)。

 先日のメディア報道で、福島原発から62キロの福島市内より、放射性ストロンチウムが検出された、ということを知り、ますます深刻な事態が明るみになっていくのを感じます。
 特に原発事故に関する知識を得ようと、最近は2冊の本を買いました。一つは、広瀬隆著『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)で、もう一つは肥田舜太郎、鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)。

 ほとんどこれまで自分が原発や放射能について無知であり、むしろ原発などは必要悪なものだ、と認識していたことを強く恥じました。この2冊の本を読めば、それが必要悪なのではない、まったく必要のないものだということに、誰しも気づかれるでしょう。
 岩波書店『図書』6月号の大江健三郎氏のコラム「親密な手紙」では、人が口にする“ナンボナンデモ!”という言葉がどれほど重い言葉であるかを伝えています。
 果たして東電や政府は、福島原発事故に関するこの3ヶ月間の経緯について、総論と各論をもって国民に“国難=非常事態”であることを、ありとあらゆる言語表現を用い、真摯に示す用意があるのかないのか? が問われているはず。
 しかしこれまでの対応を見てもわかる通り、原発事故を矮小化し、科学的根拠と洞察に乏しく、放射能汚染という危機的な直面に対して、迷信か錯覚か、あるいは気のせいかの如く扱い、彼らがいよいよ始動しようとしている「安全文化」論という、言葉としても捏造の――履き違えた思想を国民に啓蒙するつもりです。
 確かに、日本は、いや世界は、3.11以降また新たなフェーズの時代に突入した。もはやそれ以前に戻ることができない。しかし、“ナンボナンデモ!”…という気持ちです。
 事実や真実という難局と向き合わない態度は、いかなる国家であろうと、いかなる市民であろうと、再び過ちを犯し、重罪を積み重ねることになると思うのです。
 新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』で「死の灰」「ストロンチウム」という言葉が脳裏に刻み込まれます。過去に起きた現実、しかも映画の向こう側の世界ととらえていたことが、こちら側の現在の、“ナンボナンデモ!”になってしまったのです。

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