※以下は、拙著旧ブログのテクスト再録([Kotto Blog]2011年11月23日付「記憶と場所」より)。
まず、「垂乳」のこと。遂に確固たる答えが見つかりました。
昨年の11月12日付のブログ「岸田劉生の『道路と土手と塀』」で紹介した、高校3年時の国語教科書。ここに「死にたまふ母」という斎藤茂吉の歌の中に、
《のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり》
とあり、私が初めて「垂乳」という言葉を覚え、記憶の片隅に残ったのは、まさに高校の教科書によって、でした。
ところで、岩波PR誌『図書』10月号、大江健三郎先生のコラム「親密な手紙」で触れられている作家・竹西寛子さんの『五十鈴川の鴨』。まだ私は読んでいませんが、コラムの内容によれば、竹西さんは単に原爆あるいは被爆を書いてきただけではなく、《社会に向けての》、《大きい骨格》を示した人ということらしく、私はそれを「ユマニスム」と受け止めました。
【高校国語教科書より竹西寛子「道」】 |
実は先述した高校の国語教科書には、彼女の随想が所収されていて、当時私はこの随想をとても印象強く感じました。それは随筆集『ひとつとや』の「道」。
自分にとって何か意味があるのかないのか、判然としないのだけれど、記憶に残る道がある、という主題。初めて訪れた道なのに、昔ここに来たのではないか、と思う心具合について。
私は、それとは少し違いますが、記憶の中に「疵」を負ったかたちで、脳裏から離れない場所というのがあります。
――その頃は新築のパン屋で、子供相手に文房具を売ったり、雑誌を売ったりしていた小さな商店。その商店の脇に、50坪程度の草むらがあった。秋などは芒が伸びて、大人の背丈ほど繁茂していた。
私はその現場を直接見たのではなく、学校で友人から話として聞いただけでしたが、私がよく知っているある友人が、その草むらに火をつけ、一時は消防車が急行し騒然となったと。幸い、火はすぐに鎮火し、傍の商店に引火することはなかったけれど、やがてその友人は学校へ来なくなり、自宅の屋根裏に籠もったまま。災難を免れた商店は程なくして店じまいした。
後に私がその草むらを通り過ぎる度に、消息を絶った友人の顔と声を思い出し、同時に焼け焦げた匂いを感じるようになった。親子関係がうまくいかなかったその友人の痛みというか苦しみが、その草むらの記憶から伝わって、忘れることができなくなりました。
幸福であるか不幸せであるかは別にして、竹西寛子さんの『五十鈴川の鴨』においてのそれは、題名通り「五十鈴川」なのでしょうか。
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