音楽が左右の2つの拡声器によって音の空間を作り出し、そこに《歌》が現れる時、その言葉と音とによる繊細な表現性の感受は、聴覚から自己の別の感覚へと拡散し、ある種の官能に到る。その過程においては、作品を批評するという次元ではない「主体的な恍惚」を覚えるもので、音楽鑑賞特有の感受である。
私が思春期の頃に体感した音楽的恍惚と言えば、谷村新司のLPアルバム『伽羅』(1985年発売)を挙げざるを得ない。
レコードとしては私自身が最後期に買い求めたLPアルバムであり、『伽羅』は濃厚すぎるほどの谷村新司世界が広がるmajesticな作品である。ただ、中学生だった私には、その魅惑な歌詞があまりにもひしめき合っているせいで、とても難渋に感じられ、難渋であるが故に恍惚を覚えたのではないかと思われる。
《甘い夜を抱きしめて
裂けたシャツのまま 狂ってみればいいさ
愛に狂えたら 夜の匂いに気付く
甘くつらく せつない伽羅の》
《けがれ知らぬ水晶も
くだける扉の 向うに見える闇は
静かに息づく エロスの囁きさ
溶けてゆれて漂う伽羅の》
考えてみれば中学生にとって難渋、というよりも、もはや子供が入りこめない大人のお伽話である。それも、ただの男女の戯れ事ではない。そう、伽羅という“沈香”が強烈な具象を醸し出している。それは決して女が近づいてくるのではない。伽羅の匂いが迫ってくるのだ。
「伽羅枕」という言葉がある。広辞苑によれば、ひきだしの中で香を焚く木枕、遊女が用いた香枕、などとなっている。単なる美人美女を表しているのではなく、遊女らを思わせる女の美醜を絡めた言葉に思えてくる。
伽羅。伽羅枕――。
ただし、私は思うのだ。男が淡い光のもとで「伽羅枕」を真横でぼんやりと見つめるとするならば、よほど男の側も筋骨隆々とした恰幅と心の情熱で女を口説かねばなるまい。
夏の黄金虫のようなぎらぎらとした活力がなければ、極上の伽羅を嗅ぐことはできないであろう。谷村新司世界とは、女の美醜とエロスを描いただけではなく、その陰に潜んだ男の側の、欲望の眼差しと肉体的充実さがあればこその世界なのではないか。
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