ミロのヴィーナスと桜の木

 比較的暖かな日々が続いた直後の、急激な冬の到来。厚手の上着を着込む。冷気を感じた早朝、子供の頃から見慣れていた桜の大木の、いびつになった形に私はしばし茫然とする。

 最近と言えば最近であった。昔からずっとその桜の大木を、私は見続けていた。艶のない黒く荒々しい太い幹、左右対称のこんもりとした枝葉に覆われ、花が咲く頃はもう鮮やかな桜色に染まって、人々に愛され親しみのある存在。大木の真下を老夫婦がゆっくりと通り過ぎ、連れた飼い犬の背中にぽつりぽつりと桜の花が落ちて、私はそのひとときの柔らかな光景が忘れられない。――それが今は、見上げる枝葉の左3分の1が切られて、無くなってしまっている。
 その結果、垂直に伸びた太い幹は全体の中心線ではなくなり、重心が右にずれた状態となってなんともいびつである。まるで左半分が額縁からはみ出して消えてしまった感じで、現物のそれは記憶にあった枝葉の表象とかなり異なって、まったく変質してしまったのである。
 人が切ったのだった。これにはいろいろ事情があったらしい。もともと左右対称にこんもりとしていられたのは、所有者の土地からかなりはみ出していた左側の枝葉が、隣の土地所有者の義理で暗黙のうちに存在し得たからだった。つまりずっと長い間、そういう関係下で桜の大木は生かされていたのだ。
 だが隣の土地所有者が変わり、これまでの義と理が失われた。はみ出していた左側の枝葉を切らざるを得なくなった。そうして今、子供の頃から見慣れていた桜の大木は、いびつな形に変質したものの、まだそこに根を張り生き続けている。
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 清岡卓行氏の「失われた両腕」(『手の変幻』収録)を思い出す。
 ミロのヴィーナス(アフロディテ)には両腕が無い。欠落しているという話。
 19世紀、ギリシャのミロス島で発掘された大理石のヴィーナスは、既に両腕が無かった。発掘されて間もない頃に描かれたスケッチを見ると、今よりもう少し左腕が残っていたようで、それだけでもだいぶ印象が違うのだが、清岡氏は「失われた両腕」で、
《その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたのであった》
 と、詩的なエキスを垂らして述べている。
 清岡氏の「失われた両腕」を一言で要約してしまえば、“欠落の美”ということになろうか。
 ミロのヴィーナスには、《顔》《胸から腹にかけてのうねり》《背中のひろがり》といったどこを見ても飽きさせない《均整の魔》があると彼は述べる。そして両腕が失われた代わりに、想像上の美しい腕を無数に暗示させることになり、元の形に復元することはもってのほか、《失われていること以上の美しさを生みだすことができない》と半ば括る。無論これは、学術的観点ではない芸術の観点での話である。
 正直なことを言って、私は子供の頃、写真か何かでミロのヴィーナスを初めて見た時、とても怖いと思った。両腕が無かったからだ。女性の顔をした肉厚のある美しい裸体像であるのに、腕が両方無いことにショックだった。その次に思ったのは、これを造った誰かは、わざと両腕を造らなかったのではないか、ということだ。つまり美しい人間に対して何らかの反抗や反逆を意図したのではないかと思ったのだ。
 子供の視線で、それを人間否定の象徴と受け取ることほど、恐怖と失望感はない。だとすればミロのヴィーナスは美しいと思うどころか、恐怖の産物だと思ったのも無理はない。しかしそれがやがて、“欠落”の仕業だと知って、この像に対する恐怖と失望感は消えた。そして抽象的な、概念的な美というものだけを受け取った。これは美を感じたというより、人からこれが美しいのだよと教えられてそう受け取るようにした、偽善的な美の感覚であった。
 自身の中から、偽りの美の感覚を取り外す。そう考えるようになった。
 人から美しいものだ、綺麗だよね、と言われて従属する美ではない、本当に自身の心の底からこれは美しいと思えるものだけを美ととらえる感覚の襞へ。清岡氏の「失われた両腕」によるミロのヴィーナスは、あくまで彼の視点と感性による“欠落の美”を指しているに過ぎない。言わば主観の美学だ。私はそれに同調はするが、同意はしない。
 いびつになってしまった桜の大木をもう一度振り返る。
 私の主観において、確かにかつての美はそこにもう無い。しかしながら、そこから新たな美を創造できよう。無からの、美の可能性である。もしかすると、今まであの桜が美しいと思ってきたのは、それこそ偽りの、偽善的な美の感覚であったかも知れない。
 そのことに気づいた時、私はあの桜の大木が、これから厳しい冬を耐え、春になって花を咲かせるといった尊い命の峠越えの、一場を見せてくれることを幸福に思わないわけにはいかないのだ。失われつつ、何も失っていないのである。

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