いきなり蛇足になるが、昨年の夏、梶井基次郎の「闇の絵巻」を読んでいて、私自身の幼い頃のある記憶が甦ってきたことがあった。
――虫のざわめきが微かに聞こえる夜。踏切の前で停止する母の自転車の後部に乗っていた幼少の私は、ふと見上げた。踏切の電灯があたりを明るく照らしている。その電灯に、蛾や小さな虫が群がってかけっこをしている。私は吸い込まれるようにしてその高く設置された電灯をずっと見ていた。音を感じなくなった。夜を感じた。それは毎週同じ夜に眺めていた光景――。
今思えば、それがレンブラントの絵で見られるような、光の明暗の仕業だったのだ。
絵画にしろ舞台にしろ、あるいは写真や映画にしろ、真の闇そのものは描くことができない。えがくというのは、可視光の色の調子の観察だからである。月の光そして人がもたらす人為的人工的な源光。ロウソクの炎、松明、ガス灯、電灯。真の闇があってそこに光が投射される。
人の顔が浮かび上がる。光の白い、明るい領域。影の黒い、暗い領域。人工的な光を見て、相対的に闇や夜を感じる。それが画としてきわめて印象的な、何かを訴えてくるような神妙な雰囲気に包まれることがある。
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【六本木ヒルズにて】 |
閑話休題。私は昨日、“中村彝”が気がかりで、六本木の森アーツセンターギャラリーの『フェルメールとレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展』を観に行った。
純粋な気持ちでフェルメールとレンブラントあるいは17世紀オランダの画家たちの画を観に行くのではない。あくまで中村彝という日本の洋画家を慮ってそれを観に行く。おそらくそんな理由でレンブラントの画を観に行く人は、一人もいないのではないだろうか。
明治・大正時代の洋画家、中村彝(つね)。彼は1887年(明治20年)茨城県の水戸に生まれ、1924年(大正13年)喀血による窒息で死去。享年37歳。生涯結核に苦しみながら絵を描き続けた画家である(当ブログ「下落合のアトリエ」「中村屋サロンと中村彝」参照)。
中村家はもともと軍人気質の家柄で、長兄は1904年に日露戦争で戦死している。病弱だった彝は各地で療養しながら大好きな絵を描き、若い頃は白馬会だとか太平洋画会といった研究所で画を学んだ。それから新宿・中村屋の相馬愛蔵氏と出会い、援助を受ける。
ところが愛蔵の娘・俊子との恋に破れた後、中村屋のアトリエを離れることになる。そうして29歳、念願のアトリエを下落合に新築。この時援助したのは良き友でありパトロンの洲崎義郎氏。彝はのちにこの人の肖像画も手掛けている。
レンブラントと中村彝の関係。
つまり彝は、レンブラント(レンブラント・ファン・レイン)の画が好きであった。この「好き」という程度について、レンブラントの画そのものが好きであったのか、レンブラントの絵画技法に魅力を感じ心酔していたのか、私にはそこがはっきりと理解できていない。しかし、彼の文筆や書簡には多く、“レンブラント”という文字が示されている。それらの文章の端々を読めば、彼がレンブラント的技法を一つの指標とし、興味の対象としていたことは間違いなく、“レンブラントの”とか、“レンブラントが”といった修辞がよく出てくるのである。
ただし、今後描きたいと思っている画の指標がレンブラントであったり、時にルノアールであったり、時にセザンヌであったりと、ところころ変化するのも彝の画の特徴であった。それでもほとんど憔悴しきった身体にむち打って描きたいと常々思っていたのは、裸像であろうと何だろうと、肖像画であったことは言えると思う。
彼の作品のうち、レンブラントの技法を明確に意識した自画像画がある。 1910年の「帽子を被る自画像」だ。同じ題の自画像が複数あるらしく、レンブラントを真似ているのは、黒い帽子にネクタイ姿の彝の方で、その額とネクタイが灯りに照らされて輝いている画。少し眉間に皺を寄せ、渋い表情で正面を見つめている彝は少し格好良く、自信に満ち溢れている。23歳。丸善で買っておいた独版の『レンブラント画集』で技法を研究し、日暮里の下宿を住まいにしながら、研究所に通いつつ、自画像画を描いたという。
私がヒルズのギャラリーで見たレンブラントの画は、メトロポリタン美術館所蔵の1633年「ベローナ」である。髪の長いふっくらとした女性が鉄兜をかぶり、鉄の鎧を着、鉄の楯を構えた“女雄姿”というべき堂々とした風格のある作品で、光の明暗の技法はもちろん、鎧に鏤められた貴金属の装飾の細緻は、まったく見事なものであり、背景の暗がりの奥ゆかしさには、まるで鼻をつくかび臭さが漂うような空気も感じられ、いかにもレンブラントらしい油彩となっている。
とにかく彝の手紙などには、事ある毎にレンブラントが修辞される。大正9年、33歳となった中村彝は、新潟柏崎にいる洲崎義郎氏に以下のような内容の手紙を書いている(中村彝著『藝術の無限感』中央公論美術出版より)。
手紙の内容を要約する。――奇抜なご報告を、と前置きして、自身の恋を仄めかす。ある19歳の少女が私を愛している。学校を卒業したら、僕のところに来て世話をしたりモデルになってくれるという。彝はその少女が気に入っているらしく、モデルとなればレンブラントの「サスキア」やルーベンスの「ヘレン」を想像することができるという。しかし怖れていることがある。ずばりこの少女に自分が恋してしまうことだ。同棲するようになって、今の心と状態を続けていくことができるかどうか――。
恋を仄めかしているその手紙の主旨は、実はそんなことではない。
洲崎氏が彝に援助金を送り、その80円を受け取った彝が洲崎氏に感謝の意を伝えるのと、さしあたり自分の画を送ったこと。もし自分が送ったこれまでの画の中に、いらないと思うものがあったら、それを他へ売り払って金に換えたい。だから至急連絡してくれということ。
さらには、自分の生活に同情するある有力者らが、画を買ってくれるという話。そうして彼らに時々出来る画を売り渡すこと。それから年12枚の肖像画を描いて、12当分の報酬を受け取る契約をしたこと。これで少しは生活が楽になる、という彝の文。
若き日、かつてレンブラントの本を見て、堂々とした恰幅ある自画像を描いてみせた彝は、歳を追う毎に少しずつ、じりじりと死に迫り、見る影も失っていく。
苦しみ藻掻きながら絵を描き続け、それを売って貧窮する生活をかろうじて支え、そうしているうちにレンブラントの光の明暗の憧れは、まるでどこかへ消えてしまったかのようである。
いや、いつもレンブラントに憧れてはいたが、それを誇示するだけの精力も体力もなかったのだろう。享年の頃の自画像になると、もはやその明暗の技法すらない、骨と皮だけに痩け落ちた物悲しい姿と化す。眼だけはしっかりとどこかを見つめている。しかもその右手は、頭蓋骨を持って。
レンブラントも晩年は貧困の一途を辿ったが、およそ250年の歳月を隔て、その遙か東の小さなアトリエで、レンブラントの画の細緻に憧れた一人の男もまた、悲しい運命を辿る。彝は結核と心中した。徹底的に肉体をたたきのめされた。
――52階のヒルズのギャラリーの窓から、彼の最期のアトリエは果たして見えたであろうか。あまりにも明るい空に眼が眩む。私はいそいそと地下へくだる超高速の機械装置に乗り込んだ。
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