眠る人―ニュートンの『Pola Woman』

【ヘルムート・ニュートンのポラ写真集『Pola Woman』】
 ニュートンと言っても、アイザック・ニュートンのことではない。ベルリン出身の写真家ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)のことである。彼は1950年代後半以降、ファッション雑誌『ヴォーグ』(Vogue)などでセンセーショナルなフォトグラフを発表し続け活躍した。世界の著名なフォトグラファーの一人でもあり、私は彼の作品が好きである。当ブログ「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」で伴田良輔氏のエッセイ「残酷な媚薬」の中で論述されていた、彼のポラロイド写真集『Pola Woman』について、ここで紹介することにしたい。
 
 「フェティシズムの流儀―『奇妙な本棚』」の稿で私は、《ニュートンは2004年に不慮の交通事故で亡くなってしまった》と書いた。Wikipediaによれば、場所はハリウッドのシャトー・マーモント。遺灰はベルリンに埋葬とある。シャトー・マーモントと言えば、昨年大ヒットしたアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督)でもロケ地となり、セレブ御用達の華やかなホテルという印象が強い。そこはいかにも、ニュートンの趣味にしっくりくる居心地の良さそうな場所であり、彼にとっては最も生活臭の濃厚な居場所であったけれども、遺灰はベルリンに、という部分に、思わず一瞬、そうなのかとも思ってしまう。ニュートンが最も華やかに活動したパリやモンテカルロ、ニューヨーク、そしてロサンゼルスといった表舞台を遠ざかり、ひっそりとベルリンの街の一角に眠る(眠っている)とは、人と世俗の緊密さにおいて、感慨深い。

 
 ところで、“リブロポート”という出版社の名前は、私の脳内に強く刻み込まれている。この『Pola Woman』も“リブロポート”出版で1994年刊である。ヘルムート・ニュートンという奇才の写真家の写真集が見たかったらリブロポートは外せない。
 90年代前半、まだ私は20代そこそこで、こうした“上品な”写真集を入手するだけの知慮も私費もなかった(渋谷PARCOの“LOGOS”に憧れた)。あくまで噂の範疇でニュートンの写真を空想し、夢想し、専ら、その絵面を思い浮かべては、エレガントなモデル達の優雅なニヒリズムを愉しむ以外になかったのだ。
 
§
 
【パームビーチにて】
 今、ここに『Pola Woman』がある。もしこの写真集を1994年当時眺めることができていたならば、もしかすると私は、その未成熟な20代の感性でとてつもない衝撃を覚えたかも知れない。あまりにもラフで、アバウトで、ぼんやりとしていて、それでいて「女性の肉体の美」と「街の退屈さ」とが見事に同居している――。
 
 この写真集では、1969年のスコットランドで撮られたポラロイド写真(海岸の軍事演習場で撮られたらしく、毛皮を着た女性モデルが青白い顔でボートの先端で立っている)がどうやら最も古く、それ以外は80年代頃までにパリやカリフォルニア、モンテカルロなどで撮られた商業写真のためのテスト用ポラが多い。言うまでもないが、フィルム・カメラというのは、現場で撮影した写真をすぐに見ることができない。撮ったフィルムの現像プロセスが必要である。ポラロイド・カメラ(ポラロイド社のインスタント・カメラ)は、現場ですぐに写真を見ることができるため、ニュートンは本番の写真のための模擬的な撮影としてポラを活用した。そのラフなポラ写真だけを掻き集めたのが、『Pola Woman』なのである。
 
【1981年パリのヴォーグ・スタジオにて】
 ポラの効果的な使用法としては、衣裳を着たモデルらのポーズを決めてあらかじめポラで撮影しておき、また別の衣裳に着替えて同じポーズを撮るのにポラで確認するのが有効であり、ニュートンは1981年ヴォーグ・イタリアの「Naked and the Dressed」でその手法を見せてくれている。ただ、そうした手法のためだけにポラを使用するのではない。ニュートン自ら述べるに、私は短気で写した写真がどう写っているかすぐに見たいから――だそうで、ポラの写真には新鮮さや生々しさがある、のだという。この感覚は、21世紀のデジタル・カメラ全盛において、果たしてどれだけの人に再認知できうるであろうか。
 
【1981年パリ・ヴォーグ・スタジオ】
 私がヘルムート・ニュートンの作品で決定的に好きだと公言できるのは、実はここで画像として見せるのにためらい、敢えて画像不掲載で秘匿にしておきたい作品なのだけれど、1977年ニューヨーク撮影、ペントハウスでのバルコニー・ポラである。
 構図は上階から下階を見下ろし、ビルから張り出したコンクリートのバルコニーを俯瞰してとらえている。バルコニーは鉄製の格子で囲まれ、床は大きなスクエアのタイルがひんやりとした趣で敷き詰められている。床では、白いお洒落な椅子が横倒しになり、煙草の吸い殻とグラスから液体がこぼれた跡が見られる。
 そのバルコニーの、直角に角張った隅。
 薄汚れた床張りの上に、鮮やかな真紅のバスタオルが敷かれ、そのバスタオルの上に一人の金髪の女性が全裸で、うつぶせで倒れてしまっている。果たして彼女は、失神しているのか泥酔しているのか――。女性の両肩は床に密着し、細い両腕は昆虫の脚のように奇妙な形で折れ曲がっている。白い背中の側面からわずかに乳房の膨らみが見え、臀部は最も白く自然光の反射の光量を帯び、背後のセントラルパーク・ウエストの薄暗い路面と車景が、いかにも早朝の静けさを物語っている。
 
§
 
 撮るのも仕事、撮られるのも仕事。
 仕事とは、かくも辛く切ない。ニュートンにとって女性モデルらは、夢想のストーリーの演技者であり、エレガントな生活スタイルの闊達者でもある。それらを踏まえれば、ごく日常的な良き「相棒」達と言えるだろう。「相棒」達はもしかすると、世の中における「妻」という“核心的”隣人以上に特殊で密接な(心の秘め事を遠慮なく話せるという意味で)、そして皮肉にも最も遠い地点に位置する存在なのかも知れない。
 撮られる側の苦労が分かっているニュートンの、「相棒」達への眼差しは、とても優しさに満ち溢れていて、微笑ましい。そこではある種の二面性が感じられるだろう。一つは、仕事場におけるモデルとしての力強い印象、ファッショナブルな佇まいを引き出す職人的関係。そしてもう一つは、そのバルコニー・ポラのような、仕事場を離れ緊張感が伴わないことから心が緩む、愛玩的な眼差し――。
 
 眠っている無防備な猫にわざと人差し指で押してみたりして、反応を試してみたくなるような童心。眠っている世界からすっかり解放されて、退屈しきった子供のちょっとした悪戯。そうして眠り続けている良き「相棒」への優しい眼差しと愛情。そのなんとも言えない隙間のある関係性が、ニュートンのポラから感じられる。
 所有して懐にしまっておきたいが、「相棒」はどこか遠い存在である。それは充分に分かっている。しかし、そのあまりにも愛くるしい、慈しみに溢れた子供の領分としての視線は、ヘルムート・ニュートンという人の寂しさや孤独感があらわれていると言っていいだろう。私はそんな彼の写真が好きなのである。
 ニュートンはベルリンで眠っている。
 

追記:「伴田良輔『眼の楽園』―モーテルという享楽」はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました