【上野の千代田工科芸術専門学校の跡地。かつてここに学生通用口があった】 |
梅雨が明けた先月末。その日は猛暑で暑苦しく、歩くのが億劫であったけれど、日差しの強い昼下がり、東京台東区下谷1丁目にかつて所在した、私の母校の千代田工科芸術専門学校の跡地を久しぶりに訪れた――。
私は、たびたび散歩してその跡地を訪れる。数年に一度の頻度でそこを歩き、90年代の在りし日の学校の姿を思い浮かべる。思い浮かべているのは、学校であり生徒であり、その頃の自分自身の姿である。紛れもなく言えることは、そこは私にとって、とても懐かしい場所=空間であるということだ。
【JR上野駅浅草口から入谷口付近の通り】 |
千代田の母校については、もう何度も書いてきた。当ブログの2010年9月には「学生必携」、同年11月には「学校の広告」、卒業記念CDアルバムについて記した「アルバム『collage』のこと」、2011年2月には「入学式回想録」、卒業証明書に関しては2012年4月に記した「証明という感触」、講師でジャズ評論家のいソノてルヲ先生に関しては「いソノてルヲ先生―わが青春の日々」といった具合に、こと母校に関しての記述は枚挙に暇がない。ぜひ、ブログのラベルの“千代田学園”をクリックして参照していただけるとありがたい。
5つあった校舎は2000年以降次々と壊され、私が最後に見たのは、2002年頃のカトリック上野教会の裏手にあった1号館で、そこは主にデザイン写真課程の授業で使用されていた7階建ての校舎であった。
1号館の屋上には、鉄製の電波塔が設置されていた。これがまた千代田の学校のシンボルでもあった。1957年に学園が発足し、64年には1号館が完成。もともとそこは「千代田テレビ技術学校」であった(放送技術の学校、デザイン系の学校、電子工学系の学校が統合され「千代田工科芸術専門学校」となったのは1980年)。面白いことに、昭和の東京を撮り続けた加藤嶺夫氏の写真集の、昭和46年のこの界隈を写した写真の中に、小さくこの電波塔が映っていたりするのを発見した――。かつてマンモス校であった面影は、限られた写真の中でしかもはや見ることができない。おそらく2002年頃までには、すべての校舎が取り壊されたはずである。そしてその後、私は、何度もこの界隈を訪れた。今そこは、巨大なマンションが建ち並んでいるけれど、私の眼には学校の姿しか映っていない――。
【2002年の写真では喫茶店奥に校舎が見え、電波塔がまだあった】 |
学校法人千代田学園 千代田工科芸術専門学校の音響芸術科に私が入学したのは、1991年4月のこと。2年間在籍し、93年3月に卒業している。大変充足な2年間であった。そこでみっちりと――と言うと、やや誇張になるかも知れないが、音響芸術科という課程で録音やミキシングに携わるスタジオ実習の他、音楽理論、音楽ビジネスの基礎、音響電気工学、マスコミ・マスメディアに関する知識を学んだ。
当時私は20歳そこそこの学生で、地元では、ほそぼそと演劇活動をおこなっていたりしていた。休日明けの月曜の朝が、毎週とても辛く、上野駅の入谷口を出て、しばしバイク街を歩き、交差点の向こうに“北山珈琲店”という喫茶店が見えると、もはや睡魔のピークに達した。その交差点を渡り、学生の通用口から5号館の学生用エレベーターを上がって、8階もしくは9階の教室に着くと、ほとんど椅子に倒れ込むのである。寝るために。朝一の講師がやってくるまでの束の間の睡眠が、私にはとても心地良く感じられた。何故なら、この校舎の8階もしくは9階の窓から、なんとも言えない(都会とも田舎とも関係ない)柔らかな風が吹き込むのである。
【同じ場所2018年6月の写真。高層マンションが建ち並んでいる】 |
猛暑の折にそこを歩いて、マンションをおもむろに見上げたけれど、あまりに暑すぎて、かつてあった8階9階の窓を思い浮かべるには至らなかった。が、今こうして写真を眺めているうち、確かにそう、月曜の朝の、あの窓から吹き込む風の心地良さは、まだ皮膚感覚として残っているような気がする。その後いっぺんも味わったことがない特別な風――。それはまだまだ未熟な学生という身分の、優雅なひとときであったのだ。
こうして学校跡地の周辺を歩き、それ以外の下谷の近辺を歩くと、まるで学生気分に陥って、あの頃の記憶がふと甦ることがある。街の様相も、まだ完全には喪われていない、と思いたい。何度もこの界隈を訪れ、学生時代の追体験を密かに愉しむ。やはりあの風は、特別だったのだな、と思う。
コメント
はじめまして。千代田工科芸術専門学校で検索した所、UTARO さんの素敵なブログに辿り着きました私は1976年の航空電子科の卒業生です。学園界隈の写真の数々とセンス溢れる文章に深い感銘を受けると共に懐かしい青春時代にタイムスリップする事が出来た事に感謝します。私は埼玉県の朝霞市から通学してましたので上野駅の公園口から両大師橋を渡って通学してました。私が通学してた時は学生通用口の手前の学園敷地内に「うどん&蕎麦」を扱う店が有り授業後などに其処でよく食べてた記憶が蘇りました。私も何時か時間を作り今は校舎の跡形も無い上野の通学路を再び歩いてみたく成りました。またコメント~書かせて頂きます。有難う御座いました。失礼します。
この度はコメントいただき、どうもありがとうございます! いやあ、もう千代田学園の大先輩の方ですね。そんな方にブログを読んでいただけるなんて、光栄でたいへん恐縮いたします。ところで、校舎の目と鼻の先には、そういうお店がいくつかありましたよね! 私などは、上野駅内の立ち食い蕎麦屋さんでよく昼時とか、帰りに立ち寄ったのを憶えています。そういうのも楽しみの一つでしたよね。交差点から通用口の通りに入るところの、ウエスタン北山珈琲店さんには、なんだかちょっと怖い雰囲気がして、一度も入ったことがないんです。本当はすごく入りたかったのですが…。今となっては、それもいい思い出になっています。千代田学園は、卒業生の皆さんにとても愛されていた学校だったのかなあと、本当に懐かしく感じます。
Utarouさん お久しぶりです。日付けを見たら丁度~2年ぶりで驚きました。これも同窓生ならではの不思議な御縁ですね。最新のグーグルアースを見ると今でも「北山珈琲店」は健在で驚きました。私は当時に千代田の学生と何回か入店した事が有ります。店外からの印象とは、また違う雰囲気で居心地が良かったのを覚えてます。私が在学してた頃には道路を挟んで此の店の反対側に支那そば屋が有り其処の「肉そば」なるメニューが超絶な美味さだったのを今でも記憶してます。学卒後に一度だけ其の味が恋しく成り食べに行った想い出が有りますが時代の流れで今は閉店して久しいです。
コメントありがとうございます! 当時は食事処がそれなりにあったということが、学生の多いマンモス校だった証ですよね。あの頃はバイク街もなかなか賑やかだったと思うのですが、00年代くらいから徐々に寂れて、今ではほとんどその面影はないですよね。残念ですが、時代の流れなので仕方ないことかも知れません。個人的にもコロナ禍で最近はすっかり縁遠くなってしまっていますが、そのうち、あの界隈を散策したいと思っています。
千代田の卒業生です
かれこれ35年ほど前に卒業しました
当時私は学生通用口に立って学生必携を持っているか? 服装は相応しいものかなどをチェックする学生指導委員をやっていました
私もつい最近周辺を歩いて当時を思い出しました。
校舎屋上のアンテナ あれはアマチュア無線部のアンテナです
コールサインは
JA1YYDでした
コメントありがとうございます!!
そうだったんですね! あれはアマチュア無線のアンテナだったんですね。さっそく、文中の「電波塔(テレビ塔)」を訂正し、「電波塔」としました。ご指摘ありがとうございます。
ところで、コールサインを検索してみたら、『太陽にほえろ!』の話が出てきてびっくりしました。第227話 「CQ・CQ・非常通信!」なんですけど、観てみたくなりました!
私が在籍いたのは35年くらい前ではなく45年くらい前でした
そしてその在籍期間中に『太陽にほえろ』のロケが学校であって、学校の無線室は「非常!非常!非常 〇〇さんが危ない」という非常通信を偶然キャッチし それをQSP(無線用語で意味は中継)局という設定で使いました
学生指導委員だった小生はエレベーターガールならぬエレベーターボーイで関係者の移動を手伝ってました。
なるほど~。そういう経緯があったんですね。
生徒さんもいろんなことをやらされるというか経験できるのも、千代田の強みだった気がしますね。
4枚目の写真。北山珈琲店から校舎に向かう入り口路がとても懐かしいです。
本館正面入り口から入って上を見上げると大きなナポレオンの壁画。
ホール右側にはガラス張りで空調を効かせたIBM社製の真空管式大型コンピューター室。
正面奥には、一技・ニ技合格者なら使用許可されたエレベータ・・・が今でも鮮明な
記憶で蘇ります。但し、学生は正面入口は使用禁止で掃除当番の時位しか入れませんでし
た(笑)。
申し遅れましたが小生1970年・放送技術科卒業。入学後1年間は東新小岩の千代田寮
の入寮生活も含め「千代田テレビ技術学校」での2年間は良くも悪くも非常にインパクトのある奇想天外?な学園生活で、まとめると一冊の本になりそうな・・(笑・涙)
そんな母校の千代田が何とも悔しい理由で解散を知ったが五年前。残念でなりません。
大先輩の方、コメントありがとうございます!
IBM社製の大型コンピューターというと、System/360のようなメインフレームのコンピューターでしょうか? 私が在籍していた頃にあったのかどうか憶えてないですけど、それはすごいですね!
本館正面入口は、確かに出入りしませんでした。雰囲気的に学生の身分でそこから入っちゃいけない居心地の悪さもあって。
千代田の母校は、本当に思い出深い学校だったと思います。懐かしんでいただけると幸いです。
Utaroさん早速の返信をありがとうございます。
IBMコンピューターの詳細は残念ながら覚えておりません。電算機概論という授業で、クラス全員でコンピューター室に見学しに行きました。但し、室外からガラス越しに見たのですが、ラック状パネルに無数の真空管が挿されていて本体に火を入れると真空管ヒーターの熱で室内が高温になり機械動作にも悪影響となるので空調が必須なのだとか。確か、当時の入学案内パンフレットに写真が載っていたような・・・。自分達のクラスが500人位いたので、見学も上野動物園のパンダ観覧方式で「は~い、立ち止まらないで~」ってな感じで記憶も薄らいでいますが(笑)、北海道から上京して本物の大賀コンピューターを目にして、"千代田"は凄い学校なんだな~! と当時は正直思いました。
凄い学校だったと私も思います!
IBMのコンピューターを見学しに行くというのも、凄い話。コンピューターといえばその当時、メインフレームとかミニコンの時代だったと思うので、今のパソコンとはスケール感が全然違いますよね。見てみたかったです!
昨日、匿名の方から、以下のコメントを旧ブログの方に頂きましたので、こちらに転載させていただきます。
Utaroさんお初です。自分も91年入学93年卒業の同級生ですね。
自分は寮に入っていたので鶯谷からでっかい郵便局の前をダラダラ歩いて通学してました、自分は商業デザイン科だったので校舎は違ってたかも?在学中の2年間が人生て一番楽しい時間でした。喫茶店のある裏どうりは鮮明に覚えてます。建物などなくなり、風景も変わってしまったけど、みんな忘れず胸に残ってるのですね。なんかうれしいなぁ。
コメントありがとうございます!
同じ93年卒業の方なんですね! びっくりしました。
商業デザイン科の学生さんは、主に1号館に通ってたんじゃないですか? 入学前に参考書等を受け取ったのが1号館だったのですが、なんとなく教室とかの外観は憶えています。課程が違うと、校舎が別々なので、それぞれの思い出があってたいへん貴重なお話をいただけますね。
確か1号館で、合気道部やってたような笑。
ぜひまたコメントください。
返信ありがとうございます!自分は商業デザイン科ではありましたが本当の目標は役者になる事でした。数年前に亡くなった松田優作に心の底から心酔し、とにかく色んな映画を観まくってました。千代田の演技ミュージカル科や音響芸術科など、どんな事をしてるのか大変気になっていた思いがあります。ある時一号館前の入口に三段位の段があり、そこ座って友達とくっちゃべっていると、目の前を白髪でごっつい髭を生やされた高齢の老人が鶯谷方面にゆっくり歩いて行きました、んっ何か見た事のあるなぁ、うそぉあの方鈴木清順監督じゃぁ〜。友達は誰も監督を知りません、自分だけがタイムリーにツィゴイネルワイゼン、陽炎座を観ていたのでテンション爆上がりで後ろを付いていった思い出があります。
こんな巨匠の講義を受けらる科を本当うらやましく思いました。自分は卒業後は黒テント文学座と進みましたが役者にはなれなかったです。黒テントの都立家政
文学座の信濃町よりやっぱり千代田のあった下谷が好きです。思い出ありすぎて長々すみません、又鶯谷から千代田跡地あたりを散歩したいと思います!
返信ありがとうございます。自分は商業デザイン科に通ってはいましたが、将来は役者になろうと決めていました。数年前に亡くなった松田優作に心の底から心酔し色んな映画を観まくっていましたので演技ミュージカル科や音響芸術科はとても気になっていました。ある時1号館入口前で友達とくっちゃべてる時に目の前を白髪で髭もじゃの高齢の老人が鶯谷方面に向かってゆっくり歩いていました、んっ!なんか見たことあるなぁ!あぁーあの方は鈴木清順監督じぁ!
友達は誰も監督を知りません、自分はタイムリーに映画を観ていたのでテンション爆上がりで後ろを少しついてゆきました、あんな巨匠の講義受けられる科がとてもうらやましいなぁと当時は思っていましたね。卒業後は一年就職し、黒テント、文学座と進みましたが結局役者にはなれませんでした。黒テントの都立家政、文学座の信濃町、やっぱり千代田のあった下谷が一番好きです。又鶯谷から千代田跡地あたりを散歩して昔を懐かしみたいと思います。
ありがとうございます!
そうだったんですか、役者さんを目指していたんですね。
ミュージカル科の教室のある階は毎週行ってましたけど、さすがにすごくやかましかったです。みんな若くて溌剌としていた、という言い方がいいんでしょうけど笑。
私も鈴木清順監督の講義は受けたかったです。でもまあ、他の先生方の講義でも、映画の話は結構していただいたので、それはそれでいいかなあと。2年があっという間で、本当にもっと在学していたかったですね。