チュリッカ・チュリー!―オザケンのハロウィーン

【小沢健二と日米恐怖学会『アイスクリームが溶けてしまう前に』】
 子供の頃のハロウィーン(Halloween)の想い出なんかない。ハロウィーンは古代ケルトの起源で万聖節の前夜祭――なんていう話も、子供の頃に聞いたことがなかった。ただ一度だけ、カボチャ(あのオレンジのカボチャだったかどうかは不明)をくり抜いてお化けにして、ロウソクを中に入れて火を灯し、しばしそれを眺めたことはある。結局はそれが、やってる本人は何のことだかよく分かっていない“似非ハロウィーン”だったのだけれど、ケルトの起源で万聖節の前夜――なんていうのを知ったのは、大人になってからだ。
 子供の遊び事は、いやつまり、自分達子供が遊びで夢中になっている時は、大人は知らぬ存ぜぬを決め込んでそっとしておいて欲しい――と思ったことがたびたびあった。うーんもう、ほっといてよ!ってな感じ。これは何もハロウィーンに関係なくて、遊び全般のこと。大人が立ち入ると、それだけで気分が滅入るし、面白いことがぶち壊しになることが多い。
 本当は私は、絵を描くのが大好きな子だった。でもある時、大人が入り込んできて、〈ここの部分には、こういう線が必要でしょ〉と黒のクレヨンで殴り書きをされてしまい、それ以来絵を描くことが、なんとなく苦手になってしまったのだった。ほっといて欲しかったのになあ――。
 もしもその頃、ハロウィーンについて詳しく知っていたならば、その万聖節の前夜、〈よしじゃあ、大人に復讐してやろうじゃないか!〉と悪戯を企てたかも知れない。その大人には、〈ここの部分には、こういう線が必要でしょ〉と言って赤のクレヨンで顔に殴り書きをし、でっかい口紅の“お化粧”をしてあげられたかも知れないのだ。〈ねえねえ、私の顔のことなんだから、私の化粧はそっとしておいて欲しいのよね、ちっちゃな悪魔さん〉。真っ赤っかになったでっかい口で、そんな文句を言われたら、さぞかし痛快だっただろう。でも、それでおあいこ。そんなハロウィーンの出来事があったとしたら、私はずっと、楽しく画を描き続けられたに違いない。
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 小沢健二と日米恐怖学会がこしらえた絵本『アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウィーンのための連作)』(福音館書店)を読んだ。昨年の9月に発売された絵本である(作文は小沢健二、作絵はダイスケ・ホンゴリアン、手づくりはエリザベス・コール、写真構成は白山春久)。内容は、小学生くらいだったら読めるようになっている。でも、絵もたくさんあるから、文字を読まないならもっと小さな子が手に取って見てもいいし、親が読み聞かせるのがいいかも知れない。ただしそのあと、親は工作の準備をする羽目になる。たぶん。子供にねだられるから、それは覚悟の上で。
 本の中の、仮装した子供達を描いた絵が、どれも明るくて楽しそうだ。心がなんだかうきうきとするくらいに。私がお気に入りなのは、ジョン・ウッドという子のウーパーマン。クリプトナイトという緑色の石の光を浴びて弱くなったスーパーマンだとか。でも別にスーパーマンの仮装をしているのではなくて、普段着の上に緑色の塗料を塗ったくっているだけ。よろよろと歩くのだそうである。
 この『アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウィーンのための連作)』は、ハロウィーンが何なのかまだよく分かっていない日本人の人達へ、そんな大人と子供のために描かれた絵本である。いやいやもっと純粋な、ハロウィーンを楽しく遊ぶための、オザケンと日米恐怖学会からのプレゼント・レクリエーションと言っていい。絵も面白いし、とてもユニークな話ばかりだから、何度も読み返したくなる。
 これを読んでしまうと、もしかしてハロウィーンの日にはうちにも、“チュリッカ・チュリー!”(Trick or treat!)と言ってお菓子をねだられに子供達がやってくるかも? と思う。じゃあ、ちょっとばかり、お菓子を用意しておこうかしら? そんな想像をするだけでもハロウィーンは楽しいことだ。
 そうそう、そうだった。子供達はこの日、仮装をして、悪さをするんだって。だから子供達に、悪さをしないでね! このお菓子をあげるから! というやりとり。これがハロウィーンのお祭りである。例年、渋谷だかどこかの街でこの日は、なんだかガヤガヤと騒々しくなり、とんでもない悪さをする者達のニュースが飛び込んでくる。そうか、ハロウィーンってもともとそういうお祭りだったからか。え? でもあれ、子供達じゃなくてオトナだよ。どう見ても完全無欠な、オトナの仕業じゃない? どうなってんの?
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 ところで大人は、この日、お菓子をあげるだけじゃなくて、子供達をちょっとばかり怖がらせてもいいんだって。だからお菓子をねだりにやってくる子供達に、それなりの仮装をして怖がらせてあげてもいい。
 オトナを甘く見るんじゃないよ。それから逆に、オトナを丸呑み信用するんじゃないよ。いいオトナもいれば、悪いオトナだっているさ。あっちこっち、いっぱいいるんだから、悪いオトナは特に。そう、家の外にも家の中にも(え? いったい誰だい、それは…!)。世の中には、女の子をくっちゃうオトナなんていっぱいいるんだ。くっちゃったあとで泣くのは君なんだよ。だからむやみやたらと、アメをあげるからと言ったって、付いていかない方がいい。ハロウィーンの祭りは大人達の本性が見えてくるのかもね。自分で考えて、よく見きわめようね。
 毎日がハロウィーンだったらいいのに。でもオザケンはこんなことを言ってる、と私は思っている。“チュリッカ・チュリー!”と言ってハロウィーンをめいっぱい楽しんだ自分も、いつしか大人の側になる。お菓子をあげる側に。でもそれは悲しいことなんかじゃなくて、むしろ楽しいこと。ハロウィーンが本当に好きになるのは、お菓子をあげる側になってからだって。それって、とても素敵なことじゃない?
 ずばり私が思っていること。
 子供の頃に心の底からハロウィーンを楽しむことが一度もなくて、本当に残念だった。でも今、いちばんハロウィーンを楽しんじゃっている気分かも知れない。だって、“チュリッカ・チュリー!”って言ってないしウーパーマンの仮装だってしてないのに、〈あなたね、これあげるから…〉ってジャック・オー・ランタン(Jack-o’-Lantern)のお菓子もらっちゃってる。
 これって結局、こういうことだろ。日々悪ふざけをして迷惑を掛けている自分に、まわりはオトナで対応してくれているんだ。あなたはまだ未熟な子供だから、お菓子をあげるよって。
 どうだい、ほら、やっぱり毎日がハロウィーンだろ。自慢じゃないけど、いつまで経っても私は、“もらう側”の子供です。まあそんなことでこの話題は、また来年のこの時期に。

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