茶目っ気たっぷり午後の紅茶の安息日

【「イングリッシュ・ブレックファスト」のなんとも言えない美しい紅色】
 休日に温かいアフタヌーン・ティーが飲みたくなって、買っておいたアーマッドティーの「イングリッシュ・ブレックファスト」(AHMAD TEA English Breakfast)を、手持ちのミルク・ボウルに注いで飲んだわけである(前稿の「紅茶と雑貨の微妙な関係」参照)。ミルク・ボウルのそこには、高貴で淑やかな茶葉が、煌めくことなく沈殿して佇んでいた。それはまるで、夕刻のステーションにて時間になってもやって来ない彼氏を待ち焦がれている、ぢりぢりとした心持ちの貴婦人のごとく、沈みきった様子に似た風情で――。
なんと、麗しき液体の底に茶葉が沈殿しているとは、何事であるか。本来ならば、程よく温められた茶をポットから注ぐ際、ティー・ストレーナー(茶漉し)を当てるべきであり、注がれたカップでは麗しき液体のみを満喫すべきである。でなければ、客人に対して無礼であり無作法である。そうしたことは心得ておくことが必要であるが、これはあくまで自分だけが愉しむアフタヌーン・ティーの、言わば無作法によるエロティックな雑味に過ぎない。
しかしながら一方、インドのチャイ(Chai)は、ホーロー鍋などを使って紅茶の茶葉をじかに牛乳で煮出しし、シナモンを添えたりする。雑然とした製法ではある。それであっても、ティー・ストレーナーで茶葉を漉すのが望ましいわけで、茶葉が器の底に多く沈殿して残る様相というのは、もてなす側の所作として無頼の《外道》であり、招いた客に出せる代物ではない。何故これがエロティックかというと、まるでその様相が、湯船の中でゆらゆらと佇むピュービック・ヘア(性毛)に似ているからで、やはりそう考えても客人にもてなす茶ではないのである(「イングリッシュ・ブレックファスト」の茶葉ではなかなかそうならないが)。むろん、これは、人文学に寛容なる開高健氏や大江健三郎氏、サルトルなら理解していただけるであろう、実存主義的萌芽の余話なのであった。

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【これがアーマッドティー「イングリッシュ・ブレックファスト」の美装箱】
 さらにそのアフタヌーン・ティーが賢明なる清楚なティーカップに注がれたのではなく、ミルク・ボウルに注がれたとなっては、呆れてものが言えない、いったい何事であるか――。ただし、たいへん恐縮であるけれども、この一点については、私自身も責任を逃れたい無作法であるかも知れない。
 とどのつまり、これにまつわる話は、既に前稿で述べている。雑貨スタイリストだった吉本由美さんが、5年前の雑誌“クウネル”(マガジンハウス『ku:nel』2015.5.1号「雑貨が来た道 吉本由美の懺悔」)で紹介していた、ミルクどんぶりの話。若い頃フランスの映画に憧れ、そこで目撃したミルクどんぶりでカフェオレを飲んでみたい云々のエピソードであり、私も今回それに肖り、カフェオレではないがアフタヌーン・ティーで、ティーカップではなくミルク・ボウルで――飲んでみよう、と思い立った次第なのである。 ところで用意したこの器は――以前、中国茶を飲むために入手した器だけれど――ミルク・ボウルなのか何なのか。茶のための湯飲みとしては大きすぎ、把手がなく、ちょっと飲みづらい。やはり幼児が扱う器ということで把手がないのだろうか。
そう言えば思い出してみると、幼少の時、通っていた保育園のお昼の時間で、とてつもなく大きな薬缶で温められた純度100%の牛乳を、まったく華奢なアルミ製の容器に入れられて毎日飲んだものである。いや、飲まされたと言うべきか。私はどういうわけか、その温められた牛乳があまり好きではなかった(栄養価としては申し分ないのに)。華奢なアルミ製の容器は把手がなく、とても飲みづらかったと記憶している。園児にとっては、心安まる貴重なおしゃべりのひとときではあった。

カフェオレをミルクどんぶりで飲む作法というのは、昔のフランス映画においてもしかり、いわゆる蒙古斑のある無垢な子どもであったりとか青々とした若い男女の実生活であったり、結局のところ、そのミルクどんぶりの飲み口の部分は微妙に欠けているわけで、ある種の幼げな印象を醸し出す光景ということは言えそうであり、私が実践してしまったアフタヌーン・ティーをミルク・ボウルで飲む珍事も、あまり人には見せたくない――可憐かどうかは別にして――端的に幼稚な作法、ということにどうやらなりそうである。つまり、どこをどう切り取ってもこの作法は《外道》の沙汰であり、とは言え、たまにはこうした遊び心も、コロナ禍の非日常的な生活においては、必要悪なことではあった。いや、そういうことにしておきたいと思う。

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【ティーカップではなくミルク・ボウル。いやミルク・ボウルなのか何なのか?】
 昔、ミュージシャンの矢沢永吉さんが語っていたことであるが、英国人ミュージシャンは熱のこもったレコーディングの最中においても、よく“Tea break,Tea break!”と言って、演奏の熱量が下がるかのようなタイミングで休憩を取り、何度もティーを愉しんだという。矢沢さんはほとほと困り果てたが、いつの間にか自分の方が先に“Tea break,Tea break!”と言うようになったそうである。
 英国ブランドのアーマッドティー(AHMAD TEA)は、アーマッド・アフシャー氏が1953年に創業したメーカーで、比較的若い紅茶ブランドである。私が飲んだ「イングリッシュ・ブレックファスト」は、ミルクを入れると最適とのことで、実際にミルクを入れて飲んでみたところ、これがまたなかなか味わったことのない上品さで、すっかり好きになってしまった。品格というか風格ある明瞭な味わい深さでもあり、茶の香りも良好、飲んだ後のすっきりとした気分は喩えようがないものであった。 中国由来の紅茶(全発酵茶)では、ラプサン・スーチョン(Lapsang Souchong、正山小種)とキーマン(Keemun、安徽省祁門の祁紅)があまりにも有名だが、福建省福鼎市の白琳工夫(はくりんくふう)というのもあって情趣に事欠かない。以前紹介した金駿眉もなかなか美味かった。私がぜひ飲んでみたいのは、浙江省杭州市の九曲紅梅(きゅうきょくこうばい)である。これはもうエロティックな紅茶と言うほかはなく(その意味について、ここでは敢えて言及しない)、尤も、あまり人に教えたくはないのである。

それら中国茶とは少々一線を画した、いわゆる西洋風ブレンドの紅茶銘柄であるアールグレイ(Earl Grey)の、そのベルガモットのフレーバーだったりとか、インドのアッサム・ティーのセカンドフラッシュはミルクティーに最適だ、などということはよく知られており、中国原産の紅茶に負けずとも劣らないものである。私が2000年代にインターネット経由で紅茶ショップ(店名は京都セレクトショップ)から取り寄せた(当時はメールマガジンを購読してメール注文していた)銘柄が、ほぼほぼアッサム・ティーであったし、あの頃はEメールという革新的なツールの使い勝手に夢中になりつつ、届けられるアッサム・ティーの茶葉を心待ちしていたのがとても懐かしい。

――話が長くなった。
ということで、このあたりで筆を下ろすことにする。茶の話をしたら止まらなくなるので、とりあえず今回はここまで――。「イングリッシュ・ブレックファスト」を飲んだ午後というのは、それはそれは至福のひとときであるということを最後に付け加えておく。
おっと、「イングリッシュ・ブレックファスト」は、いったいどんな茶葉がブレンドされているのであろうか。詳しく分からないので、どなたか、ご存じの方がいたらぜひともご一報下さい。
では英国人らしく、Then,goodbye!!…(どこが?)

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