ブログ的ブログというスパンコールの輝き

【私も好きな成分調整牛乳の「まきばの空」】
 先日、10年以上活用していたFacebookのアカウントを「退会」した。一切合切、これまでのログは抹消されることになるはずだが、厳密には、「退会」の手続き後30日まではログは残され、その間であればアカウント復帰できるとのこと。しかしながら私の場合は、Facebookに全く未練はなく、復帰するつもりもない。思い立ってからの即座の「退会」は、画期的な〈素晴らしい判断〉であったと自画自賛している。
 インターネット生活について思いを馳せてみたい。
 この時代になると、もう既に日常生活の中で、必ず周囲のどこかに「オンラインの何か」が存在しており、情報を「どこかの何か」と出し入れさせていることが、当たり前となっている。それを便利な社会ととるか、不気味な世の中になったと受け取るか、いずれにせよ、遠い空間のものが目の前にあるものとしての錯覚、そういう錯覚性が気づかぬうちに定着していることも確かである。
 「情報を伝え合う」インターネットの基礎部分の肝は、むしろ「インターネット的」であることの条件として「リンク」と「シェア」が挙げられることは言うまでもない。が、もう一つ、無名性を重んじた「フラット」な世界であることも大事だと、もうずいぶん前、糸井重里氏が著書『インターネット的』(PHP新書)の中で述べている。
 その頃のインターネットとは、今は情報量がケタ違いなのだけれど、糸井氏が述べた「フラット」は、向こう側にいる情報の書き手(送り手)が、フォーマルでもなくカジュアルでもない、「匿名の誰かである」という「価値観の平坦さ」(even)を指しており、これは情報の書き手(送り手)の信頼性・親和性にかかわらず、その情報が無機質に拡散していくからこその、「価値観の平坦さ」という言い方もできる。
 インターネット的情報発信ツールの面目躍如であるブログ(Blog)の活用は、既に世界的に市民権を得ている。私の大好きなツールでもある。ブログ検索なら、Ritlweb(https://blog.ritlweb.com/)が有効だ。ブログは、上述した「リンク」「シェア」「フラット」の三拍子揃った申し子である。私にとってもこれは、持続可能な創作活動の、原動力となりうる思索的アドバンスなのだ。
【いわしさんのブログ「珈琲と私」】

ブログ「珈琲と私」の刹那な趣

 極私的に、ある個人ブログについて思いを馳せる。
 昔、私がよくネットでアクセスしていたコーヒー嗜好の個人ブログ――いわし(iwashi-14)さんの「珈琲と私」(https://iwashi14.exblog.jp)――は、ある日突然、引っ越しを理由に投稿をやめてしまった。そして、最終日付の投稿文と画像のみをブログに残した。私がそれに気づいたのは、半年後だった。このエピソードについては、当ブログ(2010年1月3日付)「珈琲と私」で既に触れている。いまもう一度、12年ぶりにいわしさんのブログにアクセスしてみると、案の定、その時と変わらぬ2009年6月を最期にしたまま、ウェブに残存しているのだ。手は全く付けられていない。
 いわしさんは引っ越しの際、段ボールをテーブル代わりにし、パンと牛乳とヨーグルトとコーヒーを食したようだ。私が12年前に見たのもこの画像であり、ひんやりとした物悲しさが伝わってくる。いわしさんは今でもこのブログを、時折眺めたりするのだろうか。
 画像の中に、ソニー製の黒いラジオが写っている。
 これは一見すると、ラジオ愛好家からたいへん優れたラジオだと評判が聞かれる、FM/AMポータブルラジオ「ICF-506」のように見える。が、実際は違う。本当はもっと古い、1996年製の、「ICF-810V」なのだ。810Vの特徴は、3バンドチューナーであり、昔のアナログ地上波(1-12ch)が受信できた頃のラジオだ。
 810Vと「ICF-506」は、外観の形状がとてもよく似ている。506の方は、2017年製なので、画像が撮影された2009年6月に、その部屋に存在することはあり得ない。
【私も大好きな明治の「ブルガリア ヨーグルト プレーン」】
 重箱の隅を突いた話で恐縮だけれど、所有するラジオの特性は、その人の生活環境や好み、時代を表すから、敢えてポータブルのラジオを所有している点においても、いわしさんが几帳面な人だというのがよく分かる。
 ちなみに、ソニー製ポータブルラジオの歴代の中でも、「ICF-506」は、とくに名を残すべき名機と言えよう。一方の、いわしさん所有のラジオ「ICF-810V」について。画像をよく見ると、ラジオの脇から黒いコードが延びている。一般的に多くの人が、ラジオは電池を利用する。しかしいわしさんは、それを直流4.5Vの電池駆動ではない、電源ケーブルから交流100Vを供給して使っていた。これはなかなか、少数派ではないか。パンや牛乳をコンビニなどで買うついでに、電池を購入しなかったのはなぜであろうか。
 蛇足ついでにもう一つ。
 画像を見ると、無印良品(?)のオーブントースターが入っていたと思われる段ボールの、その見立てのテーブルの上には、パンが一つ載っかっている。私はずっと、「森山牛乳クリームパン」だとばかり思っていた。しかし、そんな“森山”などという商品は無くて、実はそれは、「蒜山牛乳クリームパン」なのであった。このことに、私は気づかなかった。
 「蒜山牛乳クリームパン」は、関東ではたぶん見かけないパンである。それも当たり前、蒜山(ひるぜん)は、岡山と鳥取の県境に位置する連山であるから、いわしさんが住んでいたのは、おそらく、そちらに程近い所だったのだろう。

人類は「言葉」を発明した

 人類は、この宇宙に存在する無二の輩であるがゆえに、「言葉」を発明したのだった。これは宇宙的大発明であった。「言葉」によって社会を形成し、「言葉」によって個というものの人格と人権と自由とを、先覚し、確認し合うようになった。
 今、インターネットを活用し、その「言葉」の記録を無数に残すことで、人類世界が「何物であったか」を知るための、巨大な文化遺産になりうるかどうかの岐路に立たされている。全くもって、映画『猿の惑星』のリアルな話である。
 地球の生態系を壊し、人類はあっけなく滅んでしまうのが関の山であろうか――。日常の有様を記録した個人ブログを閲覧したりすると、実に多くの玩味を楽しめて面白い。記録者は、いかなる理由があろうとも、インターネットのウェブ上にそれをずっと遺しておいてもらいたいものだ。

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