伴田良輔『眼の楽園』―インコと女の子

【伴田良輔『眼の楽園』より、ある女の子の貼紙をデジタル画像化】
 いつか死ぬまでに、本気で会いたいと思っている大師匠の文芸作家・伴田良輔氏の名著の数々を綴っている私の趣味周辺においては、世の中のデカダンスも喜劇に過ぎず、キザなアフォリズムの一句を吐く紳士の“社会の窓”が、思いがけず開けっぴろげであることにも当人が気づかないような、そんな無垢なる滑稽さの哀憐に思いを馳せ、鋭敏に物事に触覚するようになった次第である。次第に。次第に。
 ある事ない事を詰め込んだヴィジュアリズム文芸の極めつけ『眼の楽園』(河出書房新社)が、まさに私の座右の銘となって、全神経の触覚を可能な限り機能させてくれる。そう、私は鍛えられているのであった。「社交と礼儀」に続いて今回が2回目である――。

インコをさがす女の子

《×月×日 マンションから駅に向かう途中の電信柱に、「インコをさがしています。きいろとくろとあおとくろのインコです。どうかさがしてください」と手書きの貼紙。「こまったな はやくかえってきて」という吹き出しのついた自画像が、困ったという感じがにじみ出ていて、じつにイイ。ついキョロキョロとあたりを見回して、インコではなく、その女の子をさがす目付きになってしもた》
(伴田良輔著『眼の楽園』「謎の奇音」より引用)
 本に掲載されていたその写真を、私が勝手気ままにキャプチャーしてシェイプ化し、鮮明なるテクスト&イラストに仕立てたのが、上の画像である。まさかその子も、自分の描いた貼紙が当時、伴田氏の所有する禍々しいカメラで写真に撮られ、ある事ない事を詰め込んだヴィジュアリズム文芸本『眼の楽園』に掲載されるとは、思ってもみなかっただろう。
 ましてやそれから30年後、再びその貼紙が、こうしてデジタル・キャプチャーされ、堂々とウェブ上に晒されるとは、思ってもいなかったはずだ。今となってはその子も、四十に手の届くくたびれた《大人》になっているに違いない。そうであるけれども、伴田氏が言うのとは裏腹に、その子が果たして、“女の子”だったかどうかさえ分からないではないか。
 ただし、本に掲載されていた写真の下部が、もしかすると、絶妙にトリミングされていて、おそらくそこに、これを描いた子の名前なり電話番号なりの個人情報が書かれてあって、なんとかジュンコちゃんとか、なんとかエツコちゃんとか、なんとかマユミちゃんとか書いてあったのだとすれば、伴田氏の断定は的を射ている。つまり伴田氏は、“女の子”をさがす目付きになった――のかも知れない。うん、なってしもたんやな。
 ところで、インコってなんやねん? ということで、平凡社の『世界大百科事典』で「インコ」を調べてみたのである。
《オウム目に属する鳥類のうちで、オウム類Cockatoos以外の大部分のものをさす俗称。オカメインコLaptolophus hollandicusのように、オウム類に属するものでもインコの名で呼ばれることもあり、厳密な区別はない。一般的には、羽冠があって、体色が白、黒、灰などのものをオウム、羽冠がなくて体色が赤、緑、黄などで鮮美なものをインコと呼んでいる。(中略)よく人になれ、色彩が美麗なのと、よく物まねをするので、飼鳥として喜ばれる。物まねの最も巧みなのはアフリカ産のヨウム(洋鵡)Psittacus erithacusと南アメリカ産のアオボウシインコAmazona amazonicaである》
(平凡社『世界大百科事典』初版より引用)
 この際、インコでもオウムでもどちらでもいいのだが、その“女の子”は、家で飼っていた2羽(?)のそれが、インコ(インコ科)であると信じていたようだ。
 でも、オウム(オウム科)であったかも知れない。いや、《きいろとくろとあおとくろのインコ》と書いているのだから、確かに鮮美な――インコだったのだろう。いや、アオボウシインコなんていうのは、ほとんどオウムに近くて、もしこれに白いペンキを塗ったくったらオウム(オウム科)に見間違うだろうし、コザクラインコもしかり。顔かたちだけだと、もうインコだかオウムだか分からないのである。
【伴田良輔著『眼の楽園』(河出書房新社)】

なぜインコはいなくなってしまったのか

 まあ、とにかく、それをインコ(インコ科)ということにしておこうではないか。
 ではなぜ、その“女の子”は、逃げてしまった2羽(?)のインコを描かずして、うっかり自分の似顔絵を描いてしまったか――。
 ということに、私は漠然と疑問を感じたのだけれど、実際に自分が貼紙を描くとするならば、同じようにインコを描かずに、自分の顔を描いてしまうかも知れないと思い直した。
 すなわち、自分の顔ならなんとか描けるが、いざ飼っていたインコの絵を描こうと思っても、それがオウムに似てしまうかも知れないし、ハトに似てしまうかも知れなかった。実際のところ、子どもの時分では、色だの柄だの形だのを、はっきりと正確には憶えていないものなのではないだろうか。体色が《きいろとくろ》ということで、そのインコはセキセイインコっぽいのだが、《あおとくろ》だと、ボタンインコの可能性もある。
 インコを飼っている一般の家庭では、ほとんどそれを家の中で飼っているだろう。そうだとすると、何かの拍子に――つい鳥カゴから出して、室内で遊ばせてしまうことがあるらしいが――2羽(?)とも、自由さに有頂天になって、屋外に飛び出してしまったということが考えられる。そうでなければ、インコが勝手に鳥カゴから逃げるわけがない。
 “女の子”は、インコが居なくなって、さぞかしショックであったろう。それはとても悲しいことだし、本当に困ったことだったはずだ。しかし、親の方では案外、そうではない――と言えなくもないのである。
〈あのおしゃべりインコがいなくなって、ほっとしたわ…〉
 これは悪魔の囁きにも似た、ひどい想像であろうか――。
 家事一切を押しつけられていた女性の、“カテイフジン”という言い方は、もはや死語だと思われる。その“カテイフジン”である奥さんが、今よりも家に居る時間が長かったあの時代(80年代後半)、会社に出かけたダンナさんに対するちょっとした不満や愚痴の独り言をこぼすことも、あったのではないか。
 そうした時、どういうわけだか、そういう不満や愚痴にかぎって正確に耳に入れて覚えてしまったインコ――インコの顔のどの部分が耳なのか私はよく知らない――が、例えばこんなふうに、「ボーナス、スクナ! ボーナス、スクナ! ボケ!」とか、「クツシタ、クサーイ! クツシタ、クサーイ! サイテー!」とか、「ワイシャツキスマーク! ワイシャツキスマーク! ドヒャ!」などと、家族団らんの夕飯時に、うっかりインコが大声でしゃべり出したとしたら、オクサン、アナタハドーシマスカ?

インコなんて買うんじゃなかった

 殺意を抱いた奥さんが、台所から包丁を取り出した直後に、あのインコが居なくなってくれさえすればと、方法を転換し、午後の昼下がりに思い切って鳥カゴから外へ開け放つぐらいのことは、免罪であろう――と、私は思うのである。
 当然ながら、子どもは学校から帰ってきて、家の中が変に静かなことに不安になる。そしてビックリする。インコが居ない。インコが居ない。居なくなっちゃった。居なくなっちゃった。インコが居なくなっちゃったわ。ママも知らないのよ、どこに行ってしまったのかしら。
 “女の子”は、矢も楯もたまらず、近所のあちこちを探し歩いて、結局は見つからず、家に帰宅する。ママはみじん切りにした玉ねぎを炒め、カレーライスの下準備で忙しそうだ。
 そうだ、貼紙をつくろう。外の電信柱に貼って、近所の人にインコをさがしてもらおう。グッドアイデア! と思って描いたのが、あの絵である。なんてことはない、数分で描き上げた、自分の似顔絵なのだ。よし、吹き出しも付けてやれ。《こまったな はやくかえってきて》
 インコが見つかって、早く帰られて困るのは、奥さんである。
 ダンナさんの方も、なぜ突然インコが居なくなってしまったのか、子どもに訊かれても答える気などない。
 夫婦揃ってだんまりを決め込む。
 むしろ、以前より、夫婦の仲は険悪である。新婚当初から信頼していた妻であるが、俺の居ないところで俺の悪口を言っている。俺はそんなにダメな男なのか。この前ちょっとキャバレーで遊んだら、キスマークを付けられた。ただそれだけのことなのに、妻は根に持っている。この先、妻とうまくやっていけるだろうか――。
 ああ、インコなんて飼うんじゃなかった。どうせ鳥を飼うなら、つがいの文鳥かジュウシマツにすればよかった。

みんなで鳥を飼おうじゃありませんか

 伴田氏も、インコのことなんかどうでもよく、《その女の子をさがす目付きになってしもた》と、“女の子”の消息の方が気になっている。むろん、“女の子”が行方不明になったわけではないから、捜す必要はない。
 きっとおそらく、インコは無事に戻ってきたであろう。自分の似顔絵の貼紙を、電信柱に貼るという、その涙ぐましい“女の子”の知恵によって、それを見た近所の優しいおじさんが、2羽(?)のインコを見つけ出してくれたに違いない。ほら、あのマンションの屋上に居たんだよ、お嬢ちゃん…。見つかってよかったわね。ほら、お礼を言いなさい…。
 毎年5月10日から16日は、「愛鳥週間」である。
 私はウェブ上で、子ども達が描いたとされる、「愛鳥週間」のポスターを眺めた。多種多様、色とりどり。水辺に浮かぶ鳥の姿もあれば、草木に止まって啄むリアリスティックな鳥の絵などもあり、まことに風情がある。鳥を愛でる子ども達の純粋な心が窺い知れる、ポスターの数々だ。
 もう“カテイフジン”なんて古い話なのだから、インコを飼ったってどうってことは、ないだろう。インコに何をバラされようが、ダンナさんはあなたのこころを受け止めてくれる。何故って、あなたをいちばん愛しているのだから。
 「愛妻週間」というのはたぶん無いと思いますが、“1月31日”はアイ・サ(ン)イ(チ)「愛妻の日」だそうです。はいダンナさん、よく覚えておくように。
 伴田氏の『眼の楽園』から今回は、“親と子”の愛の物語を綴った次第である。
追記:[Dodidn*]オリジナルのプロモーション映像作品「青沼ペトロの愛鳥週間」はこちら。
追記:伴田氏の「臨月のジグソー」はこちら。

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