果てしないツイッター論

【全世界のメディアで報道されたマスク氏のツイッター買収騒動】
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でインターネット上の個人・企業その他の投稿の場であるツイッターについて、ここ1年くらいに思っていたことを殊更吐き出してみようかと思っている。これがいわゆる政治家さんたちが連呼して已まない「丁寧に説明していくことが大事だ」――に値するかどうかは、読者の判断に委ねたいと思う。

ツイッターの問題点とは

 ツイッターに関していうと、もともと個人や企業その他がインターネット上(厳密にはツイッターのアプリケーション内)でつながっていく、その「コミュニケーションの調和性」(これは作家・博物学者の荒俣宏氏が流用していた言葉を、私が学んで拝借した)に富んだプロトコルが、それ自体の効能であり魅力であると、つねづね私は思っていた。
 ところが、ツイートの中味の真偽性(統計や調査結果などによる可視化された数値の正確性も含む)が次第に問われるようになり、いつの間にかツイッターそのものが、公器としての、公共における「言論の場の建屋」であることばかりが強調され、例えば近年巻き起こったイーロン・マスク氏のツイッター買収騒動によって、その「建屋」の存在が危ぶまれる云々の論調が、メディア間を駆け巡ったように、私には感じられた。
 つまり、言論の自由や公平性が脅かされるのではないか、あるいはツイッターがマスク氏の私的な思惑で掌握支配されてしまうのではないか――という危惧であり懸念である。しかし、そもそもツイッターには、言論の自由や公平性の達成度がしばし疑われる不穏な点――すなわち特定のアルゴリズムを用いて「ツイートの上位表示」に係る優先度の不均衡な疑念は、マスク氏が騒動を起こす以前に流布されていたことであり、マスク氏本人が買収理由に挙げていた問題点でもあった。
【2022年12月19日付朝日新聞朝刊「有害投稿の削除 誰が」】
 ツイッターが「コミュニケーションの調和性」を謳歌する中で、著しくとは言わずとも、特定の政治目的やプロパガンダのために利用されていたとすれば、看過できない問題である。特に最近、新聞紙上では、以下のような記事が、マスク氏の判断に疑義を浮かび上がらせている。
 「有害投稿の削除 誰が」(2022年12月19日付朝日新聞朝刊)。元ツイッター社の契約社員であったメリッサ・イングルさんが、11月に解雇された――。記事によると、イングルさんは、ツイッター社のシニアデータサイエンティストで、マスク氏の「大規模な人員削減」により、突然思いがけなく解雇されてしまったという。ちょうど、ブラジル大統領選やアメリカの中間選挙と重なる時期であったため、人員削減によって「有害投稿」が増えるのではないかとイングルさんは懸念し、投稿管理に関して自動化を推し進めようとするマスク氏のねらいは、「極めてナイーブ」だと指摘している。ここでいう「有害投稿」とは、主に「政治的な偽情報」を指している。

凍結されたアカウントの復活

 さらに同日付の朝日新聞朝刊では、「削る人員 減る広告」という見出しで、マスク氏の改革路線を非難している。記事内の図では、ロイターが報じた改革の影響についての要点3つを引用。その結果、ツイッターでは「有害投稿」が増加し、主要な広告主がツイッターへの広告表示を止めたことを強調している。
 ロイターが報じた部分でとくに重要なのは、以下の事柄。
《「永久凍結」されていたトランプ前大統領のアカウントを復活。差別的発言などを理由に凍結されていたほかのアカウントも復活の意向》
 記事の中で、マスク氏は中間選挙の直前に共和党議員に投票することを推奨すると訴え、共和党寄りの姿勢を強めているともあった。
 マスク氏のツイッター買収後に性差別的な投稿が増えるのではないか、と懸念を示したのは、HUFFPOSTに記事を投稿したIan Kumamoto氏で、「イーロン・マスクのTwitterは、LGBTQにとって安心できない場所になりつつある」という見出し(2022年11月5日付)。
 トランスジェンダーの人たちに対するヘイト発言を投稿し、アカウントが停止となっていたサイト「Babylon Bee」のCEOセス・ディロン氏に対し、マスク氏は、サイトのツイッターアカウントが停止となっている旨をディロン氏に“確認”の電話連絡を取り、(自身が)ツイッター社を買う必要があるかも知れないと示唆したという。その他記事では、マスク氏が反LGBTQ+の発言をたびたび繰り返してきた旨も伝えている。
【2022年12月19日付朝日新聞朝刊「削る人員 減る広告」】

ツイッターにかかわる個人的なブロック問題

 こうしたことについて思慮を深めようと努めていた最中、私自身のツイッターの近辺においても、「有害投稿」に係る異様な事変に気づいて、しばらく頭を悩ませてしまった――。
 どういうことかというと、私の顔見知りの知人男性が、非常に節度のない、幼稚なわいせつな投稿(ツイート)を、少なくとも数年以上繰り返していたのである。さらにその知人は、特定の著名人の音楽作品の替え歌と称し、性的な言葉をあちらこちらの歌詞と差し替えて、侮蔑に満ちた気色の悪い投稿をしていたのだった。
 その中には、私が敬愛するアーティストの作品も含まれており、二重のショックを受けた。まことに酷い事実であった。
 そうした下劣な“言葉遊び”に、知人は長年、現を抜かしていたようだが、冷静に考えてみると、私自身も一人の知り合いとして、あまりに気づくのが遅かったこと、そして直接本人に指摘できなかったことについて、大いに反省しなければならないと思った。
 これは、ツイッターのポリシーの問題と重なる部分だと私は思っているのだが、その知人の馬鹿げた遊戯の下劣な行為は、創作物の作品に対してはもちろんのこと、作者に対して甚だしい冒涜とはならないのだろうか。もしあれらの投稿の全てを、本人の家族が閲覧したとしたら、どのようなことになるのだろうか。もし家族に見られてしまったら――どれほどショックで傷つくであろうかということに関して、本人は全く想像できないほど、愚かなのであろうか。
 起こりうるであろう発覚後の先々の顛末が、私の頭の中で、走馬灯のようにして浮かんでくる。それは嘆かわしい悲劇に違いない。
 いうまでもなく私は、知人のツイッターアカウントをブロックした。今後一切付き合いをしない。その人物が所属する“クリエイター集団”に対しても、残念なことではあるが、かぎりなく距離をおくことを決意した。
 まことに恥ずべきことであり、社会人としてみっともない話の終幕である。
【呆れた知人の淫らなツイート(加工済み)】
§
 以上、ツイッターにおけるマスク氏のことと、「有害投稿」にかかわる言論の自由の危うさについて述べてみた。
 ふと手にした本が、ちょうど丸山真男氏の名著『日本の思想』(岩波新書)であった。これのある箇所を読んでみて、私は、ある種の怪訝な暗がりから光を発見することができ、さいわいにして心が晴れた。と同時に、いっそう険しい道程であることも察することができた。以下、その部分を引用して締めとしたい。
《アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです》
(丸山真男『日本の思想』(岩波新書)「『権利の上にねむる者』」より引用)

追記:Xのアカウントは2024年3月9日付で削除いたしました。
追記:Xのアカウントは2024年7月9日付で再取得いたしました。

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