かつてジャニーズはメディアの寵児だった〈2〉

【ジャニーズ事務所の一時代を築いたアイドルグループ、“フォーリーブス”】
 ネット上における奇妙な“凡例”として、こと芸能ニュースにおいてはとくに、それ自体が“生もの”として扱われているせいか、ごく一定の期間が過ぎるとニュースサイトのページから丸ごとテクストなり画像なりが削除されてしまうことが多い。
 記事そのものは、ネット上では永年アーカイブされない――。したがって、過去の元記事を閲覧することは困難な場合があり、そのため自主的にあらかじめ記事を保存しておいたり、本文を記録しておく必要がある。
 いま私がこうして追いかけているジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)関連のニュース――退所とジャニー喜多川性加害問題のトピック――のテクストは、後々ごっそりと消えてしまう可能性だってある。そのことはあえて冒頭で触れておきたかった。
 今月16日、ジャニーズJr.の7人組グループのIMPACTors(佐藤新、基俊介、鈴木大河、影山拓也、松井奏、横原悠毅、椿泰我)が、25日をもってジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)を退所する旨のニュースが各情報サイトから発信された。おそらくこの手の“退所”のニュース記事も、数年もすれば削除され、あくまで各々のサーバーに無数の孫引き情報の痕跡(ログ)が拡散された状態となるのだろう。
 ISLAND TVのサイトには、ジャニーズアイランドの代表取締役社長である井ノ原快彦氏のメッセージと、IMPACTorsのメンバー一同のメッセージが掲載されていた。以下、メンバー一同のメッセージ全文。
《はじめに、ジャニーズ事務所、そしてIMPACTorsを応援してくださっているファンの皆様、僕たちIMPACTors7人は、5月25日をもちまして、ジャニーズ事務所を卒業することとなりました。
 ファンの皆様には、突然のご報告となり、ご心配とご迷惑をおかけしたこと、誠に申し訳ございません。
 2020年10月16日に『IMPACTors』を結成し、ジャニーズ事務所で経験させていただいたこと、ファンの皆様に出逢えたこと、僕たちIMPACTorsは心の底から感謝しております。
 ファンの皆様に幸せを届けられるよう前進し続けます。
 これからも僕たち7人の応援をよろしくお願い致します》
 IMPACTorsは2020年に結成され、グループを命名したのは滝沢秀明氏とあり、彼らの今後の去就については、ほどなくして別の“生もの”のニュースが駆け巡るに違いないから、ここでは確たる具体的な話は避けておこう。
 ――ちなみに、King & Princeの3人(平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太)が5月22日に“脱退”し、平野さんと神宮司さんの“退所”に関するニュースも、ここ最近ネット上に駆け巡っている(永瀬廉、高橋海人は残留らしい)が、昨年11月、滝沢秀明氏とKing & Princeとの間で“確執”があったことを報じた『週刊文春』に対し、ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の藤島ジュリー景子社長が法的措置を検討しているとの報道があった。
 こうしたトピックも、いずれ忘れ去られていくに違いない。そうした時に、ネット上では詳細な情報は掴めなくなっていく可能性がある。
 片方に“確執”があるのなら、もう片方にも“確執”があるだろうことは推測でき、報道されたこと、報道されないこと、また報道されてもやがて削除され、人々の記憶からも消えていく可能性があることを、私は述べておきたかった。現に、私が2000年代初頭にネット上で確認した様々なジャニーズ裏情報は、現在なかなか見つけ出すことが困難になってしまっている。あえて具体的なことは述べない。
 しかしながら、過去における「ジャニー喜多川の性加害」という裏情報は、浮上しては消え、浮上しては消えを繰り返し、今日においてようやく、ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)のビジネスの不当な差別案件を生み出した、諸悪の根源的問題であることが突き止められ、“脱退”や“退所”などの全てのトピックと数珠つなぎであることはある程度、想像しておいてもよいだろう。
【北公次さんの暴露本の一部を掲載した月刊誌『噂の眞相』】

噂の眞相

 前回に続き、ジャニー喜多川氏の性加害問題についてふれる。ここでは、フォーリーブスのメンバーであった北公次さんの暴露本に関わる中味を取り上げてみたい。
 コーちゃんの愛称で知られるフォーリーブス(1967年結成、78年解散。北公次、青山孝史、江木俊夫、おりも政夫の4人)のリーダー北公次さんが、ジャニーズの付き人時代にジャニー喜多川氏から性的虐待を受けていた旨を暴露した著書『光GENJIへ』(データハウス)が出版されたのは、1988年11月である。
 その直前に出版された月刊誌『噂の眞相』(株式会社噂の真相/発行人・岡留安則)の“1988年12月号”にて、北氏の近況(当時)の写真が掲載され、「あの北公次が再出発に向けて近々半生記を出版へ ジャニーズ事務所ホモ体験を綴った赤裸々な告白」という見出しで同誌本文への告知がなされていた。ちなみに『噂の眞相』は、ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)からその出版の存在を完全黙殺された曰く付きの雑誌である(2004年休刊)。
 いま私の手元に、その“1988年12月号”がある。
 本文の見出しは、「あの北公次が“ジャニーズ事務所体験”を赤裸々に初告白!」。レポーターは横山弘次氏。横山氏は、北さんの『光GENJIへ』出版前にその原稿を入手したという。『光GENJIへ』は現在、たいへん入手困難本となってしまっているが、暴露本の“一部抜粋”ということになっている『噂の眞相』“1988年12月号”の本文の内容を、できるかぎりここで要約して紹介したいと思う。
 ――ジャニー喜多川氏に拾われ、ジャニーズの付き人になった北さんは、新宿区四谷のお茶漬け屋の2階(喜多川氏の自宅兼合宿所)に住み込みを始めた。喜多川氏は北さんに「いつか芸能界でデビューさせてやるよ」といった。
 その部屋に寝泊まりするようになって、2日も経たないうちに喜多川氏は、北さんに対して性的接触に及んできた。吐息を吐きかけ、体を何度もさすり、マッサージのようにも思われたが、その手は北さんの下半身へと伸びてきた。喜多川氏は北さんの性器を揉み、北さんは意思に反して性器が波打ってくるのを感じた。
 喜多川氏は北さんの首筋から頬にかけて口をつけてきて、性器もまさぐる。北さんはいつの間にかパジャマを脱がされ、舌で体を舐められた。性器は玩具のようにいじられ続け、喜多川氏は口に含んでそれをしゃぶりだした。
 北さんは怖さといやらしさと不安を覚え、喜多川氏を拒否した。
「やめてください…。ジャニーさん…。いやですよ…ぼく」
 喜多川氏は北さんの性器を刺激し続けた。自身も裸になり、北さんの体に密着した。北さんはそれを拒んで突き放そうとするが、上に乗った喜多川氏は、からだを舌で愛撫し、勃起した性器をしごき続けた。嫌がる北さんだったが、巧みな技で射精してしまったという。北さんはその時、16歳であった。
 北さんは初めての男性との性体験で、複雑な心境に陥った。
 毎夜続く喜多川氏の性行為は、北さんにとって生き地獄だった。脱走することも考えたが、貧乏暮らしから抜け出るためにアイドルを夢見てここにやってきた北さんは、それはできないこと、だったようだ。
 喜多川氏による一方的な性行為に耐える日々はずっと長く続き、抵抗する自分もいたが、半ば諦め、アイドルになるためと割り切って喜多川氏に身を任せていた。
【『噂の眞相』「あの北公次が“ジャニーズ事務所体験”を赤裸々に初告白!」】
 アイドル予備軍として事務所に所属しているデビュー前の少年たちは、喜多川氏の“同性愛的寵愛”を受け、デビューを果たし、アイドルとしての仕事をこなしていくという図式が浮かび上がってくる。
 北さんの場合、それが4年半も続いた。
 北さんは合宿所に寝泊まりしていたアイドル予備軍の少年たちの中で、のちにたいへんなアイドル・スターになった少年の、同様の“喜多川氏の寵愛”についても綴っている。その少年が悲しそうな顔で部屋にいるのを見かけ、母親が毎晩迎えに来て自宅に連れ帰る日が続いたのだという(※あえてここでは実名を明かさない)。他のデビュー前の少年たちの話も北さんは暴露している。
 喜多川氏の好みの少年は、「個性的」で「やんちゃっぽい男の子」だという。喜多川氏の寵愛を受けた少年は、デビュー時にプッシュされ、グループでステージに立つ際は、真ん中に立っていちばん目立つ存在となるのだ。この図式は非常にわかりやすい。しかし当然、ビジネスとしてみれば、これほどいかがわしい話はない。たいへん傲慢で差別的な支配である。
 『噂の眞相』“1988年12月号”では、北さんの暴露本原稿の“一部抜粋”として、のちにアイドル・スターになったとされる小学3年生くらいの少年への性加害についてふれられていた。仔細は省かせていただく。とどのつまり、喜多川氏がメンソレータムを持って部屋に入ってきて、愛撫などの性的行為をするという。北さんは当時、自分だけが寵愛を受けていたと思い込んでいたようで、所属タレントの大半が、そうした喜多川氏の性加害の対象者であったことを徐々に知るようになり、複雑な気持ちになったという。

憧れた少年は夜をおそれて

 気分を変えたいところである。しかし、書かれてあることを想像し、現実を受け止めなければならない。
 それはそうと、北さんのアーティストとしての側面の中で、多くの詩が残されている。「太陽を愛した少年の死」という詩がある。
 これは、LPアルバム『北公次ロマン詩集より 青春/フォーリーブス』(1973年)に収められた、音楽とともに北さん自身の声を吹き込んで朗読した小品である。この詩の内容がまた衝撃的で、私は、なにごとかを想起せざるを得なかった。
 あまりに切ない――。いたいけな少年の、空想の産物だと仮に解釈しても、この詩の内容は、あまりにその性体験を潜在的に吐露しているように思えて、とてつもなく残酷に感じられた。
《夜を背にして真昼の太陽にむかって
あるいていました
夜になると――泥棒がでたり お化けがでるときいた少年は夜をおそれて
山を登り海を渡って西へ西へとはてしなく
真昼の太陽を追っかけて歩いていきました
……でも少年はくたびれはてて
ついに岩に体を横たえて
眠ってしまいました夜がやってきてはじめて知った夜の冷たさに
燃える太陽だけを知っていた少年は
その夜に勝つことができずとうとう
冷たくなっていたのです
(以下略)》

 
【「太陽を愛した少年の死」を収録したLPアルバム『北公次ロマン詩集より 青春』】
 和歌山県出身の北さんは、少年の頃、たいへんスポーツが得意で万能だったようである。しかし家計が苦しく、名古屋へ集団就職し、その後兄を頼って大阪へ行き、職を転々としたらしい。そんな時、テレビでジャニーズ(初代ジャニーズ)を見て憧れ、ジャズ喫茶を通じて、あるバンドのバンドボーイとなった。
 バンドと共に上京後、バンドが出演した日劇のステージの袖で偶然、喜多川氏と出会う。そして、ジャニーズが好きなら会わせてあげるよといわれた。さらに楽屋へ来なさいといわれ、それがきっかけとなって、ジャニーズの付き人になることができた。付き人である以上、タレントたちの身の回りの世話や下着の洗濯だってする。しかし、北さんにも大きな夢があったはずだ。スターになって、金を稼ぎたい――。以後彼がその中で経験したことは、つまり、先述の通りである。

コーちゃんのメッセージとして

 ジャニー喜多川氏の少年愛嗜好の性癖は、もろにそのまま、狂犬というべきか狼というべきか、そういう野獣の本能を剥き出しにし、少年たちの体は傷つけられ、直接的な性加害をもたらした。被害に遭った少年たちの累計を過去に遡ってどれくらいに見積もり、どう想像すればよいのか、私の困惑自体が度を越していて全く判断がつかない。
 彼の寵愛を受けた少年たちは、有名になりたい、アイドルになって稼ぎたいという無垢な夢を捨てきれず、一人の大人の悪行を結果的には許してしまった。彼らにはお金が手渡される。気に入れられた者は、仕事にありつくことができ、やがてアイドルとしてデビューを果たすことになる。しかし、中途で拒否した少年は、ステージの隅に追いやられ、スターへの道は閉ざされ、本質的に存在すら黙殺されてしまう。当然、事務所を辞めていく者は少なくない。
 だが彼らは、決して脱落者ではない。
 断じて、彼らは、アイドルになる資格を失った脱落者ではない。何度もいう。彼らは、アイドルの落ちこぼれでは決してない。このことは、はっきりとここで明言しておく必要があるのだ。
 北さんは肝臓がんで亡くなる前日(2012年2月21日)、ジャニー喜多川氏とメリー喜多川氏に対して“感謝の意”をメッセージに託した。この内容について、多くの推測や想像は野暮というものだろう。それはフォーリーブスという稀代のアイドルグループを創出してくれた彼らへの素直な気持ちであり、偽りのない本心であったと思われる。
 ただし、北さんの人生は、救われただろうか。彼を、幸せから遠ざけてしまったものはないだろうか。それでも彼は、幸せだったというべきなのだろうか。彼の最後の言葉は、偽りのない本心であったとしてもだ。私は考えてしまう。自分自身の諍うことのできない宿命を想った時、一抹の空しさを、北さんはふと感じたのではなかったか。
 彼の人生がまっとうに幸せだったというのなら、尚彼の死後、ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の所属タレントの多くが、事務所を退所し、新天地を求めていこうとする理由がわからない。
 この性加害の問題とは別個の部分もあるだろう。しかし、やはり本質的には、ジャニー喜多川氏の亡霊が、この一連の不穏と不安を招いていることは、確かなようである。ひとりひとりの精神的な問題を含めると、この事件の大きさははかりしれない。
 多くのファンが支えてあげられるのなら、思いを一つにして、彼らを救ってあげられる手立てなり仕組みを構築していかなければならないのではないか。この手の性被害を撲滅する仕組みづくりを、私たちは社会全体の問題としてとらえ、「新しい一歩」を踏み出さなければならないのだ。
 さあ、それぞれが勇気を出して、未来のために、その一歩を踏み出そう。
 〈3〉に続く。

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