映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』における「紫色のカルバン」の話を前回述べた。
それより以前においても、アメリカの映画で、パンツという従順なアイテムにまつわる、神妙な心のうごめきを覚えた経験がある。
パープル・レイン・シンドローム
1983年公開のジョン・バダム監督の映画『ウォー・ゲーム』(WarGames)。
この映画には、パソコンマニアの高校生デビッド――演じたのは名俳優マシュー・ブロデリック(Matthew Broderick)――が登場する。
デビッドは、化学の先生からダメダメ生徒的に見下されており、そのダメダメぶりの同類で意気投合してしまった可愛いクラスメイトの女の子ジェニファーを、自宅に招く。
そんなデビッドの部屋には、きらめくパソコン――当時の精鋭なる通信システムを兼ね備えたパーソナル・コンピューターIMSAI 8080――が据え置かれていた。
たぶんデビッドにとって、年頃の女の子を自室に入れたのは初めてだったのだろう。当然、部屋の中はどっちらかっており、“プライベートな領域”がそこらじゅうにあった。
タイプライターの上に自分の下着が無造作に置いてあるのに気づいたデビッドは、その真っ白けな下着を、彼女に見られぬうちにポイと投げ捨てて隠した。高校生役を演じた若きブロデリック氏の、この時のコミカルなアクションが、とても少年らしくてシャイなおもむきで面白かった。
この映画を初めて観た当時、小学生だった私は、こう思ったのだ。
〈日本から遠く離れた海の向こうのアメリカ少年も、真っ白けなパンツを穿いているのだな〉…。
大人はカラーのブリーフを穿くことはあるだろう。だが、子どもは外国人も、「白いブリーフ」なのだという確証の安堵を覚えたのだった。デビッドは高校生だったが、不特定多数の人との月並みな社交性に欠け、おしゃれに疎い。そういう読みが、当時の私には無かったのである。
『ウォー・ゲーム』を観た2年後、パンツに対する安堵は大きく覆される。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)で、マイケル・J・フォックスがかっこいい「紫色のカルバン」を穿いていたわけである。
ええ――!!!
このショックは言葉にできない。アメリカ人の青年は、みな「白のブリーフ」を穿いているのではなかったのか?
いや、そうではなく、もはや海の向こうの若者は、カラーのパンツを穿いているのが常識なのだ、と素直に考え直した。つまり、〈日本の中学生の僕たちは、知性もファッションも遅れている〉のだと――。
ややもすれば、成長期における身体のあちこちの異変に際し、心理的な影響や困惑をもたらしていたそういう時に、新着の映画の登場人物が、多少の羞恥心をもたらしてあらわにした様態とはいえ、海の向こうのアメリカ人の日常生活を露出させた、あの“マイケルのズッコケシーン”は、同じ若者として生きる同志としてのスタイルの違いを、ものの見事に物語っていたわけである。涙がこぼれた。
あの映画を観た時、私はまだ中学1年生であった。
〈パンツはいちばん卑猥なアイテムだろうな〉…。
という、それまでの子どもじみた疑念――とくに1981年の「深川通り魔殺人事件」で、逮捕された犯人が「白のブリーフ」を穿いていた下着姿の印象が強く、あまりにも卑猥でドン引きした記憶がある――が、「紫色のカルバン」によって覆されそうになった瞬間、向こうの外国人のファッションセンスに惚れ惚れする以上に、その真逆にも、自己への複雑な危機感を上書きしてインプットしてしまうようなことが、思春期の最中の男の子には、多々ある。
多々、あるのさ。
これはすなわち、プリンスの「パープル・レイン」の歌詞における“紫の雨”の、そうした社会的な劣等感に帯びた心理ではないか。
私はこれを、「パープル・レイン・シンドローム」と呼ぶことにしよう。
フクスケのパンツ登場
果たして本当に、昭和の時代の「白のブリーフ」が、「カッコ悪い」とか「ダサい」ものであったかどうかを、私はぜひ確かめてみたいと真剣に思った。
厳密にいうと、昭和の時代の「白のブリーフ」を穿いた姿が、どう見えるのであろうか? ということだ。
要するに、昭和のブリーフのゲンブツをいま、令和の時代に穿いてみればいいわけだ。
そのゲンブツを探し出すのに、えらく苦労した。
なんの得にもならない無益な苦労ではあったものの、幸いにしてなんとか、古いパンツを見つけ出すことができた。
いま私の手元にあるのは、驚くなかれ、昭和期のフクスケ(“福助株式會社”と明記)の「メリヤス肌着」(2枚組)である。正真正銘、これぞ求めていた「白のブリーフ」だ。
さて、このパンツは、昭和期のいずれの時代のものなのか――。
パッケージに、年代を示す表記が見当たらない。レアアイテムとしての価値があるのかどうか、いずれにしても、このアイテムが販売されていた年代を割り出すのは、なかなか難しいと思えた。
福助のホームページの沿革を見てみる。
すると、福助足袋株式会社(株式會社)は、昭和33年(1958年)にインナー事業に進出し、昭和39年(1964年)に社名を「福助株式会社」(当時は旧字体を用いていたはずだから、正しくは福助株式會社)に変更している。
さらに見ていくと、昭和40年(1965年)より海外ブランドとの提携を始めるとあるが、渋沢社史データベースの『福助100年の歩み』によると、この時、アメリカのヴァンヒューゼン(Van Heusen)社と提携し、シャツを販売――Wikipediaによれば、雑誌「平凡パンチ」によってこのシャツが流行――し始めたようだ。
翌年、アメリカのコンパックス(Compax)社とメリヤス生地の「防縮加工」に関する技術提携を結んだようで、私が入手した「メリヤス肌着」のアイテムも、メリヤス生地のプリシュランク(防縮加工)のもの、ということになる。
したがって、このアイテムの生産販売実績は、昭和41年(1966年)以降ということになり、手元にあるものが昭和40年代のものか、50年代のものなのか、これらの記述だけではまだ特定できない。
しかしながら、同加工技術の「パックニット肌着」が昭和43年(1968年)より販売開始され、パッケージにある社名の表記が旧字体ではなく「福助株式会社」となっていることから、昭和40年代の半ばには、「パックニット肌着」が主力になっていたかと思われる。
ということは、福助の社名が旧字体を用いて表記されている私のアイテムは、昭和50年半ば以降のものとは考えにくく、やはり、昭和40年代から50年代前半に発売されていたアイテムの、デッドストック――と考えるのが妥当ではないだろうか。ちなみに、値札のシールに「コープ」とあり、値段は「¥550」となっていた。
実際にフクスケを穿いてみた
パンツというものはだね、置いてあるだけでは丸まっていたり、シワになっていたりして、実に水簿らしい不憫なものとしか見えないのだけれど、それを身に着けた途端、まるで同じモノとは思えないほど立派に、お洒落に、雅なモノに見えるのだよ。それは、名ブランドのカルバン・クラインであってもだ。パンツとは、実に不思議な物体だね。
真夜中に「福助足袋の歌」を聴いたせいか、夢の中に出てくる黒い影の人物がそんなことを呟いた。私が入手した古き良き昭和期のフクスケは、こんなようなものだった。
・前開き(普通丈)ブリーフMサイズのプリシュランクのアンダーウェア。
・綿100%、縮み率(丈)方向3%以下。米国政府標準試験7550(#CCC-191b)による。
・洗っても縮む心配がなく、形くずれしません。
・独特のソフトな肌ざわりと、風合いはいつまでも変わりません。
・きびしい品質検査を受けていますから安心してお召し頂けます。
では実際に、穿き心地はどうなのか――。
何事も実践主義を啓蒙する私が、これを入手して穿かないほうはない。パンツに関する言説、すなわち言語表現による「知」の述懐を飛び越え、ここは一つ、身体の皮膚感覚が訴えてくる真の「情」と「感」に頼りたいと思う。
何度もいうが、私はパンツの脱ぎ穿きの瞬間に、少年に戻れる気がする。
するりと胴体に試着されたアンチックなフクスケ――「メリヤス肌着」――は、私の想像を凌駕し、新鮮な感覚を与えてくれた。
何十年となくご無沙汰していた友人と出会った時の、親しかったのかアカの他人なのか脳の記憶が判別つかない、曖昧な状態の真空時間を過ぎて、ふわっと戻ってくるあの懐かしい感覚。
あ、これ、昔食べたことあるカールのカレー味じゃん!!!
と、脳が明快にそれを思い出してくれた後の、幸福な食後感に似た懐かしさ。子どもの頃に腰部のあたりで記憶していた皮膚感覚が、フクスケのパンツを穿いて戻ってきたのである。
これが昭和のパンツか!!!
また夢の人物が現れた。
フクスケよ、君はボクに何を与えてくれたか。 そのインテリジェンスな佇まいとは裏腹に、君はボクに、忘れかけていた愛慕を想い出させてくれた。 優雅なひとときがおまえを包み込み、その華やいだ純白の輝きに従属して、希望を叶えよう。 ささやかにボクは、その戯れの住処に、軽やかな接吻をしよう。 永久(とわ)に眠る、まことの友よ。 またいつか出逢う日が、おとずれるまで。夢、来たらん。
空前絶後の見知らぬ来客との逢瀬に対して、なんら拒否反応を示すことなく、それをすんなりと受け入れ、酒を飲み交わしたくなった、いや違う、なにか、子どもの頃に戻ったような、もっと愚直にいってしまえば、性器のあたりの「懐かしい」感覚が、蘇ったのだった。私の五感は、官能の臨界点に達した。
しかし、見た目としては、客観的にどうなのだろう。昭和のパンツは、現代のカルバン・クラインやユニクロやワコールのパンツと比較して、その審美眼に耐えうるものであろうか。
綿100%によるメリヤス加工の生地が、現代のそれより、若干薄い?――という印象はある。いうなれば、独特のシースルー感が醸し出されている。
それに加えて、この昭和のパンツの穿き心地としての「懐かしさ」は、真の意味で「穿き心地がいい」ということではない。あくまで穿いた感覚が、「懐かしい」というだけであり、その密着した感覚が現代の日常生活にマッチしているかどうか、早急の判断は難しい。
敢えていえば、穿き心地は悪くはないが、なにか物足りなさを感じてしまう。清潔感はかろうじてあるにせよ、隠し立てしたものを幾分盛り立ててくれるようななにか――が足りない気がする。純白色の自己主張がやや消極的なような、気がしないでもない。
ただし、こうした昭和期のブリーフの、その甲乙評価の蓄積によって、今のフクスケのアンダーウェアの高スペックが施策されているのだから、これをもってフクスケのパンツがどうとかをいうつもりは毛頭ない。
またそれは、相対的に現況の他のメーカーのブランドを高く評価する材料にもならない。なぜなら、試着の条件としての公平さに欠けるからだ。
いずれにせよ、まだ私にはそういったパンツに関する知識が乏しい、勉強不足なのである。
ブリーフの標準化
ブリーフの来歴については、「赤いパンツの話〈二〉」で既にふれているので割愛する。ここでいいたいのは、ブリーフも工業製品の一つだということだ。
写真家の志賀理江子さんが執筆した、あるエッセイに、自動車の金型の工場で働く人の話が載っていて、その内容が興味深かった。以下に、引用しておく。
自動車の金型とは、現在進行形の一直線の時間に対して、常に三年前が古いとされている業界です。その「三年前の古さ」というのは、その後発見された諸問題が解決されていない状態のことを言い、そして、製品のクオリティは「改善」ではなく「標準化」すればするほど良い。つまり工場では、この人はいい仕事をしますとか、「個性』とか、たった一人の職人技とかは、よしとされません。かつ、その「標準」というのは、その時点での「最新」であり、その「最新」は、その後更新されるべきです。
岩波『図書』2023年12月号、志賀理江子著「みんなモモだった」より引用
自動車の金型とは違う、フクスケの「白のブリーフ」であっても、実に端的に『標準化』された縫製品であることに気づかされる。
パンツ商品の標準化――。
工場で作られるブリーフは、一つ一つの「個性」が求められているのではなく、あくまで「標準化」こそが重要なのだった。そうして人々が愛するパンツは、時代の要請によってその機能の「標準化」がアップデートされていくのだ。
確かに、数十年の開封でもこの品質は素晴らしいといえるものであった。
貴重な昭和のフクスケを体験した私は、より先進なパンツを探し求めるために、バック・トゥ・ザ・フューチャーするのだ。
メリヤスは偉大なるパンツをビルドアップした
最後に、メリヤスについてふれておきたい。
メリヤスとは何か、平凡社の『世界大百科事典』(1967年初版)をみてみる。
メリヤスを編み物として考えると、その歴史は古い。が、機械編みというのであれば、さほど古くはないという。大別すると、「経(たて)メリヤス」と「緯(よこ)メリアス」がある。
語源は、スペイン語のmedias(メディアス)という説と、ポルトガル語のmeias(メイアス)という説があって、その意は「くつ下」である。
日本には古い時代に伝来し、莫大小、女利安、目利安などという字が当てられた。
「くつ下」の機械編みによる工業製品としての基礎をなしたのは、英国の牧師ウィリアム・リー(William Lee)で、1589年にその手動式の編み機を発明している。
緯メリヤスの基本的な組織は平編みであって、織物における平織に相当するものである。緯の列をコースcourseといい、経の行をウェールwaleという。平編みは各コース中に単位編目が同一状態に配列されたものである。新しい編目が前のコースのループ(編目)の手前につくられたものが表面で、ニードルループの背後に形成されたときにこれを裏目という。表目を常に編地の表面に形成させたものが平編みであるが、表目を1ウェールおきに編地に交互に出したものがふつうのゴム編みである。
平凡社『世界大百科事典』(1967年初版)より引用
数年前、編み物に詳しい慶応大の男子の知人がいた。
彼にもし、メリアスについて訊ねたとしたら、おそらく、その場でズボンをめくり下げ、腰パン状態で、これこれ! とパンツを指すに違いない。
それとは真逆に、編み物というものに関して、私は全くちんぷんかんぷんである。
しかしながら、繊維が交差していくミクロの構造は、音楽になぞらえて考えてみると、リズムとメロディとコード進行の折り重なる反復に、似ていなくもない。
編み上がった生地を面というが、音楽の時間軸に沿って奏でられる音の共鳴には、規則的な反復があり、それは小節ごとの複製だとも喩えられよう。編みの形式においても、音楽におけるフレーズごとの複製技術だと考えると、わかりやすいかもしれない。
卓越した技術によって編み上げる構造という観点で、服飾品と音楽作品には親和性があるようだ。音楽は天の芸術であり、メリヤスは、地上の芸術だといえる。
§
④はこれで終わり。
次回は、少し間を置くことにするが、さらなるパンツの言説を深めていくことをお約束する。むろん、実践主義者であるがゆえ、実際にパンツを身につけ、感覚を養い、その体験談を織り交ぜながら、ということになる。その点、審美眼に耐えうるかどうか、ご容赦願いたい。
ではまた。パンツに乾杯。
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