開高健『開口閉口』―アリ釣りとオスとメスの話

【開高健著【開口閉口】(新潮文庫)】

 ――こんな夢を見た。
 人権擁護の活動家である私は、都会の喧騒を離れて、ある山荘にこもった。夜な夜な、スコッチの後に、オールド・トム・ジンをベースにしたトム・コリンズのカクテルを一杯飲む。かけているレコードは、ペリー・コモ(Perry Como)の「Christmas Dream」だ。
 鞄の中に、詰めるだけ詰め込んだ『リーダーズ ダイジェスト』と、一冊の少し厚めの文庫本がある。おもむろにそれを手に取る。艶のある堅固な木製のテーブルの上では、クリスマス・カードと共に送られてきた、赤茶色のぬいぐるみのベアーが微笑んでいた――。

 手に取った本――開高健の名著『開口閉口』(新潮文庫)の話を最初に持ち出したのは、もうかれこれ10年ほど前になってしまう(当ブログ「ピーティーファンさん」)。
 あの時は、そうそう、酒に関するエッセイ「陽は昇り陽は沈む」から、薩摩治郎八の“エンコ・ビール”(=ルンペン・ビール)の話を書いたのだった。
 文庫版の解説者・谷沢永一氏によると、この本は、雑誌『サンデー毎日』(毎日新聞出版)の昭和50年1月5日号から52年1月2日号までの、103回にわたって連載された見開き2ページのエッセイ「開口閉口」をまとめたもので、その頃の《エッセイストとしての円熟期に達した開高健が、もっとも自由なかたちで不羈奔放に主題を広く求め》た、珠玉のエッセイ集ということになる。私がこよなく愛した、最も手によく馴染んだ本の一つだ。

【イングランド産、ヘイマンのオールド・トム・ジン】

蟻は何処を渡り歩く?

 そういえば10年前、“蟻の戸渡り”(ありのとわたり)の話をしなかったなと、思い出した。
 開高氏が朋友の吉行淳之介氏に話を振り、また例えばこの話を、野末陳平氏だとか、俳優の小沢昭一氏に持ちかけたら、それこそ翌朝まで延々と尽きないであろうことは想像でき、ついほくそ笑んでしまうのだけれど、いうなれば、秘部である。

 少々気が引けるが、ここでそれを、明らかにしておくべきだと思う。
 “蟻の戸渡り”とは、蟻の群衆が一筋の列をなして移動している様を、いにしえの文人が風流としてなぞらえ、一つは、長野県の戸隠山のある箇所を指し、もう一つは、人体における陰部と肛門の間、すなわち会陰(えいん)を指した隠語ということになる。
 そのささやかな恥部に陰毛がひしめき合っているところから、蟻の行列を想像させる――そういう呼称がついたものと思われる。ちなみに私は、会陰とは、女性のそれだけを指しているのかと若い頃は思っていた。しかし、男性のそこも女性のそれも、同じ会陰というらしい。

 開高氏は、「たくさんの蟻が門を渡ると」の中で、こう定義している。

後門から前門へいく間道のことである。その間道はごぞんじのように狭くて、疎林がある。ときどき猛烈な藪になっている人もある。それを古人は《蟻の門渡り》と呼んだ。語源はわからないが、字面では光景が眼に見える。門の敷居を蟻がよちよちと這っていくと、敷居というものは狭いものだから、それを見て古人はかの秘めやかな間道を思い出したのであろう。奔放な連想飛躍というもんである。

開高健著『開口閉口』「たくさんの蟻が門を渡ると」より引用

アリ釣りの話

 まことに尽きることのないこそばゆい蟻の話から連関して、『開口閉口』では、アフリカのチンパンジーの「アリ釣り」に関するエッセイがある。「オスはメスを見捨てなかったが、しかし……」だ。
 開高氏は奇遇なる場所――パリの学生町の安下宿――で、その「アリ釣り」をしている写真が出ている雑誌を読んだのだそうだ。

野生のチンパンジーがアリ塚のまえにしゃがみこみ、手に棒を持って、あの、テレたような、得意なような薄笑いに似た顔つきをしているのである。その記事を書いているのは動物学者で、野生のチンパンジーを現場でずっと観察しつづけた実見記の一部が掲載されているわけなのだが、それによると、チンパンジーは棒きれをアリ塚につっこみ、しばらくしてそろそろとぬきとり、その棒についたアリをぺろぺろと舐めとるのだそうである。

開高健著『開口閉口』「オスはメスを見捨てなかったが、しかし……」より引用

 私も子どもの頃、テレビのドキュメンタリー番組で、チンパンジーだったかオランウータンだったかの「アリ釣り」の様子を観たことがある。なかなか人間っぽい所作で、どことなく退屈しのぎでそれをやっているようにも見えた。

 開高氏によると、チンパンジーは、つっこむ「棒」にも好みがあって、《その好みの基準はまだよくわからないが、いずれにしても“選択的”に選びとるのだそう》だ。
 常日頃、盛んに釣り(=狩猟的趣向の代表格)をしていた開高氏にとってみれば、チンパンジーでさえも「棒」を選んでから仕事にかかる、という風情に、えらく親近感を覚えたらしい。ヒトは道具を作り、ケモノはそういうことをする知恵がないという常識が覆され、感動したわけである。

 では、ケモノとヒトとの決定的な差は何か?――ということを開高氏は言及するのだが、トルストイの話を持ち出しても、またマルクスの話をしても、その差は無いのではないか、という結論になってしまう。

オスとメスの話

 そこで開高氏は、ある生態学者との談話を持ち出す。
 やはりその生態学者がいうに、ケモノとヒトとの類似現象が多すぎて、けじめがつかなくなっているとし、ニホンザルの叫び声ですら、それを分類して辞書ができるくらいに、音声による伝達能力があるらしき話をする。つまり、ヒトとなんら変わらない。
 ただし、唯一、ケモノとヒトとの決定的な差があるという。
 開高氏が、生態学者にそれはなんですか? と問う。すると生態学者曰く、

オスの行動さ。ヒトのオスはメスを見捨てなかった。移動、放浪、乱交、雑婚、離婚、いろいろなことはあったけど、ヒトのオスはメスを見捨てなかった。タブーだ、宗教だ、裁判だと、いろいろな外的規制で支えたということがあるけれど、とにかくオスはメスを見捨てなかった。

開高健著『開口閉口』「オスはメスを見捨てなかったが、しかし……」より引用

 この生態学者って、ずばり吉行淳之介氏なのではないか? と私は勘ぐったのだが、その論議はともかくとして、開高氏がいう生態学者の彼は、ひどく動物的に興奮した様子だったのを開高氏は見て、これに自己解釈を加えていく。《……しかし、ヒトのオスがメスを見捨てなかったことが巨大な現実をつくったのは事実ですが、恐竜や旅行鳩のように滅亡していった民族もおびただしくあります。それに、どうやら生きのびられた民族だって、オスがメスを見捨てなかったためにケモノの知らない不幸をヒトのオスはやたらに背負いこんじゃってあえいでいるじゃありませんか》

 「そこだ」と、生態学者が大きくうなずく。
 開高氏は生態学者のうなずく姿に、むしろその興奮の中に、苦痛のしるしと、熱のある裸眼を見い出した。そして相手の興奮もやがて鎮静し、「そこだね」と呟かれる。

 そこだね――。
 そこなんだよね、という意味のこの、そことはいったい、何がそこなんだ? と、若い頃に私はこれを読んで、開高氏の、おののきとも幻惑ともつかぬ文脈の筆致に思わず唸って煩悶してしまったことがあったが、今読んでも、その観察眼というか、文学的創造性のたくましさの源に、卓越したものを感じないわけにはいかない。
 開高健という人はつまり、ヒトに対する、いわば博愛主義のそこ――が濃いのである。

ケッコンできるか否か

 私が若き高校生の時分に、ほとんど同性どうしの収斂でしかない、工業高校の集団生活的実態を背景に、まるで“他人事”のようにしてクラスメイトらの、「女性との出会いの無さ」について思いふけったことがある。いうなれば教室の中で休み時間をまったりと微睡んでいる彼らは、いったいこれからどうやって、どこでどうして女性と出会うことができ、結婚にまでたどり着けるのだろうか、という重大かつ切実な問題提起に頭を抱えたのだった。

 最も果敢に恋と愛に接していたいと思う多感な時期を、ほとんど無益にして男連中とだけまったりと接しているという、いわば阿鼻地獄の学生身分としては、女性に対する応対能力ひいてはそれを恋と愛に転換し絡めていく術を、なんら持ち合わせていないわけである。
 やるせない彼らは、休み時間にUNOをやり、トランプに持ち替えればポーカーをやり、ブラックジャックをやるのが関の山だ。
 これから社会に出て、恋愛をし、所帯を持てる可能性というものが、1ミリすらも無いのではないか――という絶体絶命的な不安に駆られたのだった。

 ところがどうしてどうして、高校を卒業し、あれよあれよと10年も経たぬ間に、彼らは、立派な社会人となって所帯を持ち、「生まれました」とばかりに新しい家族のカラー写真をハガキでよこすような、“お行儀の良いお人柄”に成り代わって、若かりし幸福の一幕を飾る術をすっかり身につけていた。なんら、心配する必要はなかったのである。
 大いに心配し、無益な絶望感に駆られていた私の方こそ、未だ独身の身分での生活者として、愚の骨頂の極みに溺れ死んでいるのだけれど、一方では、再び下らぬ“他人事”を抱えてみて、〈ああそうか、彼らは、メス…失礼女性を見捨てなかったために、ケモノの知らない不幸をやたら背負いこんであえいでいる状態なのかしらん?〉と、不明晰な心のゆらぎに、阿漕な自分の邪悪さを思ったのである。

オスはオスとして生きられるか

 しかし、思い直した。
 オスがメスを見捨てなかったために、ケモノの知らない不幸をやたら背負いこんだとはいうが、動物的にいうと、オスがオスであるための、最も奔放で充実した社会的安寧をもたらすものは、そこにメスが内在するからではないかと。メスのいない環境では、オスはオスとして生きられぬ悲しい性質なのではないか――と。あの頃の、工業高校時代のように。
 この不確かな定義と解釈は、世間で多様性云々が叫ばれる21世紀の今日において、よりいっそう深刻な呪いごとのようにして体内に沈殿していく気がした。
 もはや最近の国語辞典の【恋】には、「異性」云々の語はなく、「相手」のことが好ましく、とても気になって会いたいと思う気持ち…などと記してある。しかしだよ、例えば「推し」と「恋」とでは、まだ幾分かの決定的な差があるように思うのだが、草食動物的若者諸君はまだ、そこのところが――わかっていないね、と忠告しておきたい。

【山荘にこもって酒を飲み読書にふける】

 静まり返った夜更け、外野でフクロウが啼く。ベッドから上体を起こし、本を閉じる。
 裸足でつかつかと歩き、シャワールームで顔と体を洗う。気の利いたボディソープの香りがひろがる。裸体が湯で火照って赤みを帯びる。最も落ち着く濡れ湯のひとときを過ごす。

 熱いコーヒーを淹れる。角砂糖が目の前にあったが、ブラックで飲む。
 手に取った『リーダーズ ダイジェスト』に、こんな小話が載っていた。キスとたばこ…。

お父さんがお母さんに向かって、唇に二本の指を当て投げキスをしました。お母さんは赤くなりながらも、うれしそうに投げキスを返しました。
 するとお父さんは一言――「ばか、たばこをもってこいと言ってんだ」。

『リーダーズ ダイジェスト』1985年1月号より引用

 男はまだ、愛されている。そう思いたい。
 むろん真実は違う。
 男は一生のうちに一度たりとも女性に愛されることはないであろう。愛しているというふりをされているか、もしくは、男を愛している女をワタシは演じてみせる…。そんな心優しい女性が、眼の前にただ一人いるだけのことだ。
 可哀想な存在の男のあなたに、思いやりの投げキスを返して、それを否定される筋合いは、ないんじゃないの? と女は、心の底で思っている。
〈バカなのは、あなたの方じゃない?〉。

 じゃあ愛情って、いったい何かしらね。ムフフ。
 そうなのだ。まだ愛されていると思いたいのである。男としては――。女の不幸を背負いこんだつもりの、不幸なオスのかたじけない性分とやらに、世の中の女性が付き合ってくれている。
 ま、そこだね。

追記:「開高健『開口閉口』―やらされることの美学〈1〉」はこちら

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