身も心も清廉潔白な人なんていやしない。
前稿の「『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』におけるジャバ様のこと」の中で、多少皮肉めいて悪辣かつ卑劣なジャバ・ザ・ハットに捕らわれたレイア姫のことを書いたが、なんといってもそのレイア姫を演じたキャリー・フィッシャー(Carrie Fisher)さんの生涯は、プリンセスとは程遠い世界にいたことは事実で、私は彼女に関心を持ち、1990年の映画『ハリウッドにくちづけ』(Postcards from the Edge)を観たいと思いつつ、この話をエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)さんの伝記映画『Back to Black』につなげようとしていた。しかしいま、それが頓挫しかけていておぼつかない。
絶妙なタイミングというのがある。いま私はこれを書かなかったら、多分この先書く機会を失ってしまうかもしれないから、無理矢理に押し込めて書いておきたい。
食に詳しいエッセイストの平松洋子さんが、ついこの前には「マッシュルームのサラダ」のことをコラムに書いていたのに、大谷翔平さんの話がぽんと出てきて、私は泡を食った。大谷翔平さんって、どれだけ人に愛されれば気が済むのかと半分冗談で思ったりしたのだけれど、やはりこのタイミングは絶妙だと思う。
ちなみに、平松さんの「マッシュルームのサラダ」の話で大事なのは、簡単にできるがゆえに、調理の順番に手を抜くなということ。集中しろということ。
分量は適当でかまわない。が、まずレモン汁をかけ、それから塩を振り、最後にオリーブオイルをかける。この順番を守ってほしいと。曰く、それぞれの調味料の数字(加える量)よりも、加える順番の中身が味を左右するので、大事なのだ…。たいへん勉強になった。
すべからくオオタニさんに
そんな平松さんのコラムが、『週刊文春』で連載されているのだった。「この味」というコラムである。驚くべきことに、既に622回を超えている。
その「マッシュルームのサラダ」の話の翌週号(4月4日号)に、なんとまあ、大谷翔平さんが登場したのである(別に本人が登場したわけではありません)。
MLBのドジャース対パドレス戦で、大谷翔平とダルビッシュ有が対峙して歓喜し、《ずっと思ってきたのだが、大谷翔平という人物の言葉には想像や余韻を膨らませる不思議な力がある》と括った。平松さんはすっかり大谷さんに感心している。
この号の「この味」には、こんなサブタイトルが付けられていた。「ハードローンチの天才」。
これは、アメリカのメディア“The Athletic”の記者が、大谷を「ハードローンチの天才」と評したことからの転用なのだが、日本人にとって、あまり馴染みにくそうなフレーズではある。
原文を読んだわけではないが、私はこれを、JIJI.COMの3月8日付の記事「大谷翔平が結婚 見えた日米の違い」(在米ジャーナリスト・志村朋哉)で読んで確認した。2月下旬に大谷さんの電撃的な結婚発表があった際、エンゼルスとドジャースを担当する記者サム・ブラム(Sam Blum)氏が「大谷はハード・ローンチの天才」といったという。突然大きなニュースを発表することの意だ。
このところ、日本のメディアは確かに大騒ぎであった。少なくとも平松さんは、「マッシュルームのサラダ」どころではなかったようだ。
「ローンチ」という日本語表記あるいは音声そのものが、そもそも日本人にとっていい回しにくい。しかも、意味を間違えやすい。おもいきって「ラーンチ」といい換えたいところだが、ランチと間違えられそうだから区別してそれを避けたのではなかろうか。
意味としては、例えばミサイルやロケットの「ランチャー」(launcher)という名詞をいうと、たいてい納得してもらえる。ずばり、発射装置のこと。「ランチャー」だったら、すぐに日本人も――とくに痛めつけ系(?)のゲームだったり、サバゲーをよくやる人には――理解しやすいかと思われる。
これをさらに転じて、「ハード・ランチャー」というと、なんとなく意味がわかってくるような気がする。それの他動詞が、launch(ローンチ)であり、組織的な活動を「始める」とか、新製品を「売り出す」とか、「打ち上げる」もそう。hardは「強い」「かたい」が語源で、「難しい」とか、「熱心な」とか、「強烈な」といった意なので、まあ例えば、日銀の異次元緩和の「黒田バズーカ砲」といった和製英語混じりの表現で、見事に“大きい規模の事象”をわかりやすくいい当てているのと同じ、ということはいえる。
大谷さんがかもしだす、やんちゃでソフトなイメージとは違い、ハード・ローンチ(=ハード・ランチャー?)と他人にいわれるような強烈な何かとは、一体何なのだろうか。そこはちょっとばかり見えてこない気がする。ちなみに、アメリカ人は、大リーグの選手の結婚発表なんて、あまりに平凡すぎてトピックにならないらしい。
大谷さんの「ハードローンチの天才」が、果たして好意的な表現として受け止められているのか、それとも多少、皮肉が込められているのか、アメリカ人的感覚でなければわからないことだらけである。
平松さんはコラムの中で、彼の発するコメントを、「簡潔」「そっけなく聞こえる」「説明やサービスも薄い」「優等生っぽく聞こえがち」としながらも、ずけっということに魅力を感じたようで、
「僕にとってはおじいちゃんみたいな方たちだから、全然気にならない」
といった言葉に、笑った――と述べる。《おじいちゃんみたいな方たち》とは、渡米して二刀流の結果が出ない時に、日本のプロ野球界の重鎮たちがああだこうだ述べたことに対する彼なりのいい回しである。表現としての「ずけ感」は、確かに純度100%かもしれない。
オオタニさんが食べたカレーのこと
コラムの後半に出てくる、妻の料理に関するコメントには、「ずけ感」が「ほとばしる」ほど、ではないにしても、けっこうちらちらと「ずけ感」があって面白かった。もはやこの「ずけ感」は、しっかりと漬け込んで醗酵した、塩分とまろやかな旨味の絶妙な感覚に近いものを感じてきてしまう。
文藝春秋のスポーツ誌『Number』3月28日号(1092号)での「[独占インタビュー]大谷翔平『結婚生活を語る』」に掲載された彼のコメント(の引用)。
「彼女としては作るのが難しい料理を言ってほしいんでしょうけど……へへへ。僕はカレーがやっぱり美味しかったですね」
――ちょっとばかり補足すると、元の記事の記者(石田雄太)の質問――(奥様が)「最初に作ってくれた料理は何ですか」――に対し、大谷さんは、最初が何だったのか思い出せない、と答えた。なので、記者が、じゃあ最初じゃなくて、作ってもらって美味しかった料理は何でしょう? と改めて大谷さんに訊いたのである。すると、以上のような答えが返ってきたということ。
この本文(「彼女としては…」という返答)の3行に詰まった情報量の多さに、平松さんは感嘆したという。
どういうことかというと、大谷さんは、手間をかけた料理をも食べたに違いない…、それも美味しかったし、好もしかったのだろう…、奥さんは料理が得意だけれど、大谷さん自身は凝った料理にはあまり興味がない…。
《彼女としては作るのが難しい料理を言ってほしいんでしょうけど》という部分に、「慮り」の真心が感じられて感嘆――ということのようである。
そのカレーは具だくさんのカレーか? と記者に訊かれ、大谷さんは「ドライカレーでした」と答える。ルーから作ってくれてすごく美味しかったとも、彼はいった。
平松さん曰く、《平々凡々とした幸福感に触れ、こっちがニヤけてしまう》。
平松さんは食に詳しいエッセイストであるから、どんなに美味しい料理であっても、食べた人がどれだけの幸福感を味わったかは、全く別の次元であることを、よく知っているに違いない。料理に手間をかけるというのは、その人の愛情の度合いを示すものではあるが、たとえドライカレーであっても、大谷さんは味わって食べたのである。
結婚生活の中で、そういう環境が整っていたということ。それは大谷さんの心を満たす、最良のものだったのかもしれない。日常生活における、ちょっとしたことの積み重ねで、心を満たすものは変化する。だから平松さんがいうように、《平々凡々とした幸福感》にこそ、真の幸福の源泉があることを説いたのである。
しかしながら、平々凡々を何気なく掴み取るのは、容易なことではない。
§
このコラムの締めが、大変重く感じられたのである。
《「ドジャース 水原一平通訳を解雇」の一方が飛び込んできて、たった今くらくらしています》。平松さんの動揺は隠しようがないのだった。
きらりと輝く光のそばには、必ず暗く沈んでしまうような陰=闇があることは、否定できない。それは恐縮ながら、私の雑多な人生の経験則からも学んだ、真実に近いことである。
いま、大谷さんのことを書いておきたい、ふれておきたいと思ったのは、そうしたことの直感が働いたからだ。このタイミングでなければ、私は大谷さんの「ハードローンチ」のことも、「ドライカレー」のことも素通りして一切書かなかったと思う。
真実は決して明るいものでも、幸福なものとも限らない。
冒頭での話に係るけれど、愛しく好きな人がダークサイドに陥るということが、“スター・ウォーズ”のルークと父アナキンの関係でもわかるように、そういうことが、世の中には確かにあるのだ。それに限っては、ファンタジーの世界の話ではない。
キャリー・フィッシャーさんとエイミー・ワインハウスさんのことを持ち出したのは、そういうことなのだけれど、いずれ、何かがわかってくるだろうし、それについて書いておきたいというのも、私の書き手としての切なる希望なのである。
何が、大事か――。
そう、レモンに、塩に、オリーブオイル。この順番でしたね。私も学んでいきたいと思います。ではまた。
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