漱石のこと〈三〉

 「首縊りの力学」の話題に引き込まれて、先月から『吾輩は猫である』を読み耽っていると、年を明けた朝日新聞の記事に漱石の話題が掲載された。
 《我が輩の寄稿である 漱石全集未収録 伊藤博文暗殺に「強い刺激」》
(2013年1月7日付朝日新聞朝刊)
 明治42年11月5日付の満州日日新聞に「韓満所感」という題で漱石の寄稿文が掲載されていたことを、作家の黒川創さんが発見したのだという。「韓満所感」は(上)と(下)に分けて掲載された。
 これまでの漱石全集には未収録であったということが最大のニュースであるが、その中身の、漱石の所感とする内容については、まったくの個人的な意見というよりも、あくまで満州日日新聞への寄稿文であるというバイアスを考慮しなければならず、そういう意味では非常に興味深く、研究者による将来的な考証課題であろうかとは思う。
 漱石の最も有名な肖像と言えば、あの片肘を突いた少しアンニュイな表情の、左腕に喪章を付けたあの写真である。アイルランド出身の著名人には片肘を突いた肖像写真が多い――というのは私の勝手な偏見であるが、漱石もアイルランド人の気質が漂う。
 漱石の喪章写真にはバリエーションがある。満鉄総裁の中村是公及び満鉄理事の犬塚信太郎との3人で撮られた喪章写真の漱石は、さらにアンニュイとした感じで硬く重苦しい。明治帝の大喪という理由があるにせよ、漱石の重苦しい表情は、疾患からくる身体的な影響の方が大きかったのではないかと私は考える。
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 漱石の日記(満韓紀行日記)には、僅かながら「韓満所感」への伏線が見受けられる。明治42年7月31日、中村是公がやってきて、《満州に新聞を起すから来ないかという。不得要領にて帰る》とある。同年8月13日には、《伊藤幸次郎来書。満鉄に入って新聞の方を担任す。中村からの話ありて、一応挨拶だか相談だか分らぬ手紙也。中村はどの位な話をし、伊藤はどの位な考で手紙を寄こしたものやら分らず。返事に困る》ともある。こうした箇所を読むと、漱石が気負って満韓旅行に出掛けたとは思えない。
 10月1日、《朝、鈴木穆来る》
 鈴木穆は鈴木禎次(漱石の妻・鏡子の妹の夫)の弟で、この時朝鮮総督府の度支部長である。その人の寄稿文(「朝鮮旅行の頃」)が、漱石全集月報(第7号・昭和3年9月発行)にあった。旅先の漱石を世話をした鈴木は、

《お弟子さんや新聞社の人や其他いろいろの人が来て、その人達と一緒に外へ出ることの外には殆ど外へ出ず、賑やかな所へ行くでもなし、名所見物をするでもなし、一日内へ引き籠もつてをられたこともありました。そこで私はかねがね胃の具合がよろしくないといふことを聞いてをりましたので、そんなに内へとぢ籠もつてゐては實際體によくない、少し運動するがよいだらうと云つて、當時私は乗馬をやつてをりましたので、馬へでも乗つて運動するがよからうと云つて盛んにすすめたものでした》
 と、その時の想い出を綴っている。胃腸虚弱の漱石にすれば、精神的にも肉体的にもそれなりに辛い旅であったことが窺える。
 漱石が10月半ばに京城から東京へ下船した数日後、伊藤博文はハルビンにて暗殺された。
 その1ヵ月後、漱石は寺田寅彦に手紙を送っている。

《僕は九月一日から十月半過迄満州と朝鮮を巡遊して十月十七日に漸く帰つて来た。急性の胃カタールでね。立つ間際にひどく参つたのを我慢して立つたものだから道中非常に難儀をした。其代り至る所に知人があつたので道中は甚だ好都合にアリストクラチツクに威張って通つて来た。帰るとすぐに伊藤が死ぬ。伊藤は僕と同じ船で大連へ行つて、僕と同じ所をあるいて哈爾賓で殺された。僕が降りて踏んだプラトホームだから意外の偶然である。僕も狙撃でもせ〔ら〕れれば胃病でうんうんいふよりも花が咲いたかも知れない》
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 最後に、伊藤博文が暗殺された云々を伝える当時の大阪朝日新聞(明治42年10月27日付)の縮刷版を参考までに読んでみた。「伊藤公を悼む」という社説的文章の中で、《歴史より観ば実に不世出の一大偉人》という言葉が出てくる。さらに荘重して、《古大臣の風ありき。今や遂に此の一大偉人を失ふ》と続く。
 一大偉人。
 漱石の『門』の中の会話「何故つて伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ」というこの言い回しは、“不世出の一大偉人”と故人を、それは渺渺たる尊厳で讃辞した新聞論調に対しての、漱石のみならず一般大衆における当てこすりの返答であったと、私は思う。

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