音楽における創作活動のうち、【作詞】という分業は、私にとって切実な命題となっている。
あるリズムを伴ったメロディに、言語を織り込んでゆく作業。言語の一片一片の音の形(音韻)、語彙、意味からくるイメージの世界であり、人間の意思や意志、行動、そして無が関わる。
音楽は文芸の結晶体なのだということを声高に叫びたくなるくらい、音階やリズムをいじる傍ら、【文芸=詩】に傾斜する比重は、私自身、その切実さが増してきている。
そうしてふとある時、詩人であり彫刻家である高村光太郎はどうであったか、ということを何気なく思った。
本当に何気なく、高村光太郎――。私が今も大事に所有している、母校の高校の3年時で扱った国語の教科書、筑摩書房の『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』(当ブログ「教科書のこと」参照)で、「現代詩」の単元として高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」が出ていたからだ。
とは言え、私はこれまで、高村光太郎の詩をじっくりと味わって読むことがなかった。こうして今、彼の詩集を買い求めて、それを丹念に味わって読んでいるのは、先に述べた“切実な命題”という逼迫した直感や嗅覚に駆られているからなのだが、そうした彼と長沼智恵子との様々なドラマを知るうちに、妙な親近感を覚えてしまったのである。
そうなると逆に、何故私は十代においてこの人に関心を持たなかったのだろうという素朴な疑念に駆られたりして、過去の自分を不思議に思ったりもする。
私の小学校時代の友人K(この友人については当ブログ「現像しなかったフィルム」で書いた)が、17歳の時に珍しく私の家にやってきて、思春期の苦悩をざっくばらんに――それもかなり親密な内容で――いろいろ語り合ったことがあった。この日のことはよく憶えている。
それこそ時間をかけていろいろなテーマについて語り合ったのだが、その時Kの口から出た、高村光太郎の「レモン哀歌」…への熱い思いの丈も、記憶の鮮明さとは裏腹に、私の心には届かなかった。
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Kはひどく興奮していた。「レモン哀歌」について熱く語ったのだと思う。だが私の心は冷めていた。同調も同意もしなかったし、それがなんなのだという思いの方が強かった。
「レモン哀歌」という詩に興味がなかったと言えばそれまでだが、もともとKは性格的に身振り手振りが大きく、興奮すると言葉が震えだして、むしろそれは感想というよりも熱情的な《感動》になり、非論理的となってしまう傾向があった。
Kが熱くなればなるほど私は冷めていった。それは突き詰めれば、Kに対する日頃からの軽蔑であったのだろうか。高村光太郎に対する詩人としての軽蔑心であったのだろうか。「レモン哀歌」に対するあの大袈裟な興奮を、私は傍で眺め、かなり冷ややかな態度を取った――。
そんなことを思い出しながら、筑摩書房『高等学校用 国語Ⅱ二訂版』で掲載されていた、高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」を読んだ。これは1928年、彼45歳の作品で、岩波文庫の『高村光太郎詩集』では〔「道程」以後〕の中に括られている。
高校生だった私はこの詩を読んだか読んでいなかったか、いずれにしても無味乾燥だったのだろうが、今読み直してみるととても面白い詩である。
高村光太郎が何故45歳で動物園に行ったか、ということをまず想像してみる。
彼は1903年23歳の時に渡米した。「ぼろぼろな駝鳥」の2年前に「象の銀行」という詩を書いているが、セントラルパークの動物園で見た象が主題となっている。その「象の銀行」も興味深い詩なのだが、そこでは彼の焦燥感がよく表れている。象に対して、あるいは周囲の“彼ら”に対して、ある種の憎悪が感じられるが、それは自己の焦燥感の裏返しである。ともかく、彼がその動物園でえらく神経を磨り減らしていたことが窺える詩だ。
彼にとって渡米の記憶が、苛立ちに満ちたものであるとすれば、「ぼろぼろな駝鳥」の焦燥感にも合点がいく。分かりやすく言えば、駝鳥がぼろぼろでダメなのではなく、自分自身がぼろぼろでダメなのである。そういう詩である。
実際に動物園に行って見たもの。その写実、ということはどうでもよく、動物園と動物、その記憶が結びつけているものの正体は焦燥感であり、仮に彼が彫刻のためのデッサンで動物園をたびたび訪れていようがいまいが、そんなことはどうでもいいのだ。彼は動物を見るとたちまち苛立つ。焦燥感を覚える。それが詩になって表れているとしか言いようがない。
そうして私はこう考えた。
高村光太郎は《デカダン》として象徴されるけれども、動物を対象にすると如実に発覚する彼の内面性の、救うことのできない焦燥感というものが、もしあの美しい詩集となっている『智恵子抄』や「レモン哀歌」にも潜んでいるのだとすれば、どうであろう。それは単なる智恵子を対象とした愛の物語ではなくなり、高村光太郎自身の、その純愛と劣等の交差に深く刻印された、自己焦燥の、局面においては智恵子への苛立ちの履歴とはなるまいか、と。
ここで私はハッとなった。あの時友人Kがあれほど興奮していたのは、もしかすると、高村光太郎の内面の焦燥感に勘づいていたからではないのか。それを私に対し理解を求めようと必死だったのではないのか。
振り返ってみれば、Kの性格的熱情も焦燥の裏返しであり、私は高村光太郎に不干渉であっただけではない、Kの潜在的な苦しみに対しても、それに知恵を与える能力がなかったのである。高村光太郎が目の前にいたのだ。
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