愛するカメラとは何か

【玄関にあった鉢植えの花をテスト撮影①】
 カメラが好きである。カメラのボディとレンズによる光学とその機構が好きである。若い時に銀塩写真の現像術を習わなかったことを、少し後悔したりもする。カメラを通じた光学と化学の関係、領域――。その両輪によって写真が生み出される過程そのものを、私は愛して已まない。
 最近また、デジタルのコンパクト・カメラを買い換えたのだ。収集を繰り返してのカメラ狂だった昔はともかく、今はデジタル一眼レフ(フルサイズ)はCanonのEOS一辺倒、コンパクト・カメラの方はずっとRICOHを偏愛していて、その2機をよく使い、銀塩のクラシック・カメラなどは一切合切処分してしまっていた。尤も最近、けっこう良質なインスタント・カメラも購入したので、フィルム式はそちらで愛玩するようにし、結局のところ3タイプのカメラを併用している。
 で、コンパクト・カメラのRICOHを、SONYに換えたのである。他意はない。が、かなり覚悟をもっての決断であった。手持ちのカメラの台数を増やしたくなく、コンパクト・カメラは1機で充分という考え方から、RICOHをこの度手放した。
 常時使えるカメラを、実務的に扱えればそれでいい。質実剛健主義。ただ、SONYのカメラ(DSC-RX100M4)に換えた理由を敢えて述べれば、久しぶりにツァイスのレンズを味わってみたくなったのだ。これは単焦点ではないけれども、ポートレイトに最適な、50mmレンズ的な役割をまかなってもらいたく、そのめっぽう明るいレンズであるZEISSの「Vario-Sonnar T* 24-70mm F1.8-2.8」は、私にとって願ったり叶ったりの代物に思えた。そしてこのDSC-RX100M4(通称“RX100IV”)は、なんといっても手に持った感触がとても小さく、それなりに堅固で硬質で“カメラっぽい”のであった。
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【撮影に使用したカメラSONY DSC-RX100M4】
 新しいカメラによるファースト・コンタクト、というのがとても大事である。使う人間とその道具とのコミュニケーションが破綻せず潤滑に行き届くかどうか、初めの接し方が決め手になったりする。
 その日の午前、家の玄関先に置かれた鉢植えには、春らしい淡紅色の花が咲いていて、北西側のガラス壁から太陽の間接光が柔らかくこの鉢植えに射していた。カメラとレンズの「特性」(人間でいえば人格のようなもの)を試すのには、逆光線の被写体を撮ってみなされ――というのが私の頭にインプットされている。これは誰から教わったか定かではない。ともかく、この鉢植えの花はファースト・コンタクトに最適な被写体と思われた。ISO感度は400。しばし集中的に、カメラテストを試みた。
 ――撮った後、現場ですぐさまモニタリングし、絞りによるボケ味や逆光における露光の出来などに満足した。ツァイス特有のシャープなキレもある。その後、撮ったカットを2点選び、別途ソフトウェアを使ってフィルムの粒子を含んだモノクロームのデジタル処理を施してみた。ここに挙げた2点の花を被写体にしたモノクローム・カットがそれである。
【玄関にあった鉢植えの花をテスト撮影②】
 やはり写真というのは、撮る時の気分が大事だな、と思った。昔、ウィン・バロックの「Child In The Forest」などという、森に繁茂する草叢の中に、眠って横たわる少女のモノクローム写真があってそれをじっくり眺めたことがあったけれど、あれなどとても先鋭さの深みがあって、被写体の中心は少女でありながら、画面に広がる無数の微細の被写体の生き物らしさも感じられ、写実なのにメルヘンチックなのであった。ああいう黒と白の《明暗》の味わいはとても素晴らしいと感じられる。
 “バロック”の言葉で思い出したけれど、澁澤龍彦のエッセイ集『ヨーロッパの乳房』(立風書房)の「バロック抄―ボマルツォ紀行」では、そのイタリアのボマルツォの怪物庭園を撮影した写真家・川田喜久治氏の「ボマルツオの聖なる森」なるカット写真があって、別の本でカラーの写真を確認したりすると、太陽光が射した森の樹木の《明》の部分と石彫刻の影になった《暗》の部分との調和が実に幻想的で、謎めいていた。私はそういう何かを「物語ってくる写真」が、とても好きなのだ。写真における深みとは、そういうことを指しているのだろう(※ボマルツォの怪物庭園については「ボマルツォの怪物」参照)。
 そこに花があれば、女体のようにエロティックに撮りたいと思う。自ら写真を撮る時、そうした気分――何かを「物語ってくる写真」になるであろう被写体と構図を、直感的に身の前にとらえられるような心持ち――になるには、手に持ったカメラのボディの感触が、まず自身の心とうまく合致しなければならない。そしてそのカメラとレンズが透明な存在になって、なんの諍いも起こさず実務的な機構をこなしてくれることを「私」は要求する。この要求に応えられるカメラとレンズのみが、「私」の道具となり、「私」の写真となり得る。
 このカメラとのファースト・コンタクトがすこぶる良かった。露光における《明暗》とシャープな切れ味と、あと何か――そう、エロスだ。

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