キューブリックの『シャイニング』

【スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』】
 何故私はスタンリー・キューブリックの映画を好んで見続けるのかと言えば、そこに彼の最高傑作と思える遺作『アイズ ワイド シャット』があり、『2001年宇宙の旅』という壮大な哲学的オデッセイがあり、究極の叙事詩『バリー・リンドン』という作品があるからに他ならない。
 スタンリー・キューブリックは1928年ニューヨークに生まれ、若い頃は雑誌のカメラマンとして腕を上げた。1950年代頃から映画製作に携わり、62年には『ロリータ』を、64年には『博士の異常な愛情 又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を公開し、65年のあの『2001年宇宙の旅』(と共に博したヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」)で世界的なセンセーションを巻き起こし、一躍“時の人”となる。
 1999年の遺作『アイズ ワイド シャット』が最高傑作となる決定的な布石があるとすれば、それは1980年公開の『シャイニング』だろう。この映画は彼の作品史上、最も収益を上げた作品となっている。『シャイニング』はホラー映画である。しかもホラー映画であって、単純なホラー映画ではない。様々な芸術的細工を施した、総合的芸術作品である。キューブリックが生涯作り続けた映画はすべて、その一つ一つが名画に匹敵する芸術作品でもある。
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《『シャイニング』は1980年5月23日金曜日にニューヨークで公開された。スタンリー・キューブリックはその作品に3年もかけていた。上映するためのフィルムがプレミア上映前の水曜日までできなかった。キューブリックが最初の6本のフィルムの音質を不満に思ったために、試写会は延期された》
(ヴィンセント・ロブロット著『映画監督スタンリー・キューブリック』晶文社より引用)
 この映画は当時画期的であった「ステディカム」(ステディカム・ジャイロスコピック・キャメラ・システム)を採用し、そのオペレーターであるギャレット・ブラウンによってほとんどのシーンが撮影された。動画撮影でカメラを手に持って走った映像を思い起こして欲しい。着地と同時に映像がぶれ、非常に見苦しいショットになるが、このぶれをほぼ完璧に抑えるべく開発されたのが「ステディカム」で、岡持を“出前機”に装着したバイクを想像すれば分かり易い。ああいった平衡状態を常に保つ仕組みの器械装置をカメラマン自体に装着し、カメラを装着すると、歩いたり走ったりしても揺動するぶれが解消され、映像が少しも乱れないのだ。
 『シャイニング』ではそういった流れるように美しいシーンがたびたび見られるし、従来の小型移動車とレールを使ったカメラワークでは決して得られない、小回りのきいたなめらかな映像が堪能できる。ステディカムによる流麗なシーンの数々には、キューブリック特有のある種の審美眼的な性格をはらんでいることを、まず踏まえておかなければならないだろう。
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 映画のシチュエーションとなるオーヴァールック・ホテルは、険しい山間にある山荘洋館ホテルである。そのホテルの面接を受け、雪深い冬期期間の管理人の仕事を請け負った作家志望の男、ジャック・トランスは、妻のウェンディーと息子ダニーを引き連れ、複雑に入り組み迷路のような、広々としたこのホテルで一冬を過ごすことになった。ジャック・トランスを演じるのはジャック・ニコルソン。妻役はシェリー・デュヴァル。子役はダニー・ロイド。
 かつて管理人の前任者だったグレイディという男が、この屋内で気が狂い、妻と二人の娘を殺害しているという曰く付きのホテル。『シャイニング』は、徐々に生気を失っていくジャックが、二人の家族を殺そうと、必死に逃げ惑う二人を捜し追いかける映画である。原作はスティーヴン・キング――。
 そのスティーヴン・キングが面白い言葉を残している。監督スタンリー・キューブリックについて。《彼は一緒に出かけて何杯かビールを飲める人だ。ただし、一晩中飲み明かそうと思わない限りにおいては》
 キングは、自作の小説をもとに製作されたキューブリックの映画『シャイニング』に不満があったようだ。尤もその不満の多くは、公開後批評家達がこの映画を観て、小説の恐ろしいと感じる部分をことごとく台無しにしている云々――と酷評したことと類似するものであるが、超自然現象や心霊現象といった観念の映画的言及を極端に避け、キューブリックはただ登場人物らの内面に禍する、心理的精神的作用による家庭内悲劇という図式に落とし込んでしまったと、キングは腹を立てたのだ(キューブリックはこう述べている。《これは一人の男の家族が、一緒に静かに狂っていくだけの物語だ》と)。
 両者の《狂気》に対する観念の相違はある。キューブリックにはキューブリックの審美眼を伴った観念があり、科学的解釈に乏しい超常現象を忌み嫌い、キングはキングで、そこにこそ彼ら(トランス一家)が恐怖を味わう《狂気》の原理があるとする観念。私はどちらとも庇うつもりはないが、少なくとも映画においては、上述した3人の名俳優らによってほとんどのシーンが“絵的に”救われたことだけは、確かである。
 この映画で私が恐怖を感じたシーンがいくつかある。
 それはまず、“All work and no play makes juck a dull boy”(仕事ばかりで遊ばないジャックは今に気が狂う)と果てしなく無数にタイピングされたジャックの原稿。妻ウェンディーがそれを発見して、幾枚も幾枚も紙をめくってみても、打ってある文章はみな同じ。狂気の沙汰である。しかもこれは何より、キューブリック自身に当てつけた皮肉(仕事ばかりで遊ばないスタンリーは今に気が狂う)であり、製作スタッフ誰しもが同意できるメッセージである。したがって、この映画の主人公ジャック・トランスは、キューブリックそのものだとも暗示しているのだ。
 霊感の強い息子ダニーの、ダミ声になった“redrum”(レッドラム)の連呼(これが何を意味するかは映画を観てのお楽しみ)もなかなか怖い。ダニー・ロイドは当時、名子役と評され、たいへんな人気スターとなったが、ダニー・トランス役が彼でなかったならば、おそらくこの映画は大失敗で終わっていただろうと思われ、彼のキャスティングは非常に重要であった。
 駆けつけたホテル料理人のディック・ハロラン(演じるのはスキャットマン・クローザース)がジャックに殺される短いショットの連続では、息子ダニーの恐怖におののいた表情のアップ・ショットが挿入されており、これが実に心理的かつ効果的であった。無論、音楽による相乗効果という点も忘れてはならないだろう。
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 キューブリックを好んで何度となく観てきた『シャイニング』。映画のタイトルが“シャイニング”(Stanley Kubrick’s The Shining)である以上、その意味における観客の意識を、ストーリーに投げかけるようなシーンに出くわすべきであり、もしそれが巧妙ならず乏しかったと思うならば、やはりキングの言い分は正しいことになる。
 しかし――。
 そのシャイニングの意味がもし、ディック・ハロランとダニーの超能力者どうしの《対話》にあらず、ホテル・バーでの、ゴージャスで刺激的な照明に照らされたジャックの顔が印象的な、優雅にバーボンを口にする彼の饒舌シーンにこそある、と観客の誰かが気づいたならば、キューブリックしてやったりだ。先に述べたように、ジャック・トランスはキューブリック自身である。あのシーンでジャックは、過去における息子への暴力を吐露し、言わば愚痴をこぼすセリフで大三昧となるが、その事実性はともかくとして、あれをやってみたかったのは紛れもなく、キューブリック自身であろう。
 あれこそが、シャイニングと命名された映画の中で、最もキューブリックが描きたかったもの。自身の身の上話の、横柄なる吐露――。《酩酊》の演技、しかもそれを演技派ジャック・ニコルソンが演じきるのだから文句はない。この映画、単なる家庭内暴力、家庭での不満の吐露、おおいにけっこう。心の中で必死に藻掻き叫んでいたのはクレイジー・モンスターであるキューブリック自身であり、それを再現すべく“3年間”ずっと、夢見ていたのではないだろうか。
 そうなのだ。だからこそ、キューブリックが最高のホラー映画を作りたいと言ったのは、そういうことなのである。自ら暴れまくる家庭内暴力の絵面を具現化した映画。単にそれだけ。男の横柄でちっぽけな我が儘。舌を噛みそうな、驚くべきステディカム・ジャイロスコピック・キャメラ・システムを駆使して――。私の大好きな映画、それが『シャイニング』である。

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