アラビアの道―東博・表慶館にて

【上野の東博・表慶館】
 春の兆しを体感した2月末の穏やかな日、東京・台東区の東京国立博物館(通称・東博)におもむく。目的は、『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』の観覧。東博の表慶館という趣のある場所で、人類の歴史と文明を遡り、アラビア半島における交易と巡礼に連なる至宝を見ることができ、至福のひとときを味わうことができた。いまだ、ぞくぞくとした気分の余韻が絶えない。
 まず何より、東博へ訪れていつ見ても美しいのが、玄関口の左側に鎮座する表慶館である。表慶館は、明治41年竣工の片山東熊の作品。翌42年に開館したこの洋風建築の建物は、イギリスの建築家ジョサイア・コンドルに学んだ片山の、最も有名な作品である国宝の迎賓館(旧赤坂離宮、旧東宮御所)にも見劣りしない、古代ギリシャ・ローマ様式。その恰幅のある姿は惚れ惚れとしてつい見とれてしまう。この館はもともと、大正天皇の御成婚を記念した奉献美術館であって、開館当時は美術工芸を主とした陳列館であったという。荘厳な趣は昔も今も変わりない。
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【『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』】
 そんな表慶館で今回催された、『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』。主催は東京国立博物館、サウジアラビア国家遺産観光庁、NHK、朝日新聞社。
 今展覧会は特別協賛としてサウジアラムコが支援している。昨年3月、サウジアラビアのサルマーン国王がアジア歴訪の折、日本を公式訪問。両国間による「日・サウジ・ビジョン2030」の合意。言わずもがな、日本とも関係が深い。その昨年のサルマーン国王来日のニュースは大いに話題を呼んだが、サウジアラビア王国、西アジアのアラビア半島と聞いても、私はその歴史や文化に疎い。ちなみに、この展覧は当初、1月23日から3月18日までであったが、会期が延び、5月13日までとなった。これにより、いっそう多くの観覧者が素晴らしい至宝を目の当たりにするに違いない。
【暗闇に映える至宝の数々】
 話の腰を折る――。昨年、岩波書店のPR誌『図書』の岩波文庫創刊90年記念の臨時増刊で『私の三冊』という小冊子を読んだ。映画史評論家の四方田犬彦氏が岩波文庫の『アブー・ヌワース アラブ飲酒詩選』(塙治夫訳)を挙げているのが目に留まり、少し興味を持った。《八、九世紀のバグダッドに生きた破壊詩人の作品集。さしずめイスラム世界のパゾリーニか?》と述べてあって気になり、思わずのけぞった。アブー・ヌワースもさることながら、この詩選は一体どんな内容なのかたいへん興味がある。アブー・ヌワースというと、酒にまつわる四行詩を書いた、同じペルシア人のウマル・ハイヤームを自然と連想するけれども、こちらの彼は生粋のムスリムではなかったとも知られる――。
【紀元前のタイマーの彩文鉢や皿など】
 中東、アラビア半島、イスラーム文化圏いずれも歴史として私はさっぱり疎いので、今展覧に鑑み、バグダッド(バグダード)より西南の、アラビア海と紅海に囲まれたアラビア半島の位置を、世界地図でじっくりと眺めなければならなかった。
 私が愛用している世界地図は、なかなか古い。古すぎる。1965年初版の『世界大百科事典』(平凡社)の世界地図である。半島の南端、アデン湾に沿った陸地帯は境界線によってイエメンとイエメン人民共和国とに分断されており、その東側においては、マスカットオマン、北のトルーシャルオマンと半透明の境界線らしきものが記してあって、現在の国境とはまるで違う。これらの国の歴史と経緯をいちいち私がここで噛み砕くことは到底できやしない。しかしながら、このようにアラビア半島は、日本とは違い、今以て何か煮え切らない半熟卵のような熱を帯び、じわじわとうごめいていることだけは確かである。
【「アラム文字による奉献碑文」】
 何より変わらないのは、半島に広がる砂漠地帯である。ヨルダンとイラク国境に近いネフド(ナフード)砂漠。ペルシア湾(アラビア湾)により近いところのダハナ砂漠。ツワイク山地に広がるルブアルハリ(ルブゥ・アルハーリー)砂漠。展覧会カタログの資料によれば、ネフド砂漠の広さは7万2000平方キロメートルであるのに対し、ルブアルハリ砂漠は50万平方キロメートルと世界最大級だそうで、これまた資料によると、アラビア半島は、恒常河川がほとんど存在しない最も広い地域なのである。それでも1万年から6000年前までの半島は、平原や砂漠の盆地に多くの湖沼があった。考古学的、古代の地政学的研究の見地において、このことは非常に重要な事柄ではないか。
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【カルヤト・アルファーウのランプ】
 今回の展覧は、個人的に久しぶりの東博の観覧のため、気持ちが異様に昂揚した。だから逆にゆったりと時間をかけ、観てまわることができた。
 旧石器時代のアラビア半島には、なんとゾウがいた――。そのしるしの化石の標本展示から、“アラビアの道”は始まる。旧石器時代の遺物を見ると、その地域の文明とくらしの姿が見えてくる。紀元前3500年頃の石偶を見たが、これがまた、顔の面積の割合が極端に小さい女性の像で、乳房らしき突起がわずかに表れ、下腹部には陰部らしきものがなんとか見て分かる。少なくともこの石偶は女性を神として崇めていたことを表していると思われた。
 香料の話に飛ぶ。今のイエメンやオマーンのあたりでは、乳香(フランキンセンス)や没薬などの樹脂香料が産出され、宗教儀式や薬品として珍重されていたという。これをもととした交易都市の行き交いによって、相互に文化は深まっていく。紀元前4世紀頃のタイマーの「アラム文字による奉献碑文」を見た。碑文の上部にいくつかの奇妙な絵(記号?)が刻まれていて、これが何を意味するのか判然としなかった。タイマーは北アラビアにおける香料貿易の拠点である。このような奉献碑文の遺物のほか、香料貿易で欠かすことのできない香炉、香油壺、香油瓶、鉢のたぐい、あるいは分銅、3世紀頃のカルヤト・アルファーウの銀杯などといった貴重な遺品が数多く展示してあった。
【豪奢な造りの表慶館内部】
 そうしてイスラームのマッカ(メッカ)の話、巡礼の話――にいきたいところだが、あまりにも長くなるのでやめておく。近年におけるアラビア半島の考古学研究は目覚ましいようで、日本ではなかなか見る機会のない遺品・遺物を多数、表慶館の会場内で観ることができた。
 それはそうと、サウジアラビア王国の初代国王であるアブドゥルアジーズ王の若い頃を写したモノクロームの肖像写真が、眼に焼き付いて離れない。ゆったりと椅子に腰掛けた身体は微動だにしない余裕がある一方で、その毅然とした表情はどこか淋しげで、視線が鋭い。そう、映画『アラビアのロレンス』も観たくなった。まだまだアラビアの興味が尽きないのである。

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