映画『幻魔大戦』―愛と新宿とポカリのパースペクティヴ

【映画『幻魔大戦』のDVD】
 17歳の高校生の主人公・東丈(あずまじょう)が、新宿の街の場末でポカリスエットの缶を蹴る――。取るに足らないシーンのようでいて、どういうわけだか私は、それを見て〈これはただ事ではない映画だ〉と感じた。むろん、そこにいたる前のシークェンスも、ただ事ではない不穏な《予兆》を想起させてはいたが、自身の過去の記憶をめぐり、その理由が次第に判明していくのだった――。
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 映画『幻魔大戦』を観た。1983年公開の角川映画。キャラクター・デザインを務めた大友克洋の作画に魅了される。冒頭のシークェンスでトランシルバニア王国の第一王女プリンセス・ルナが登場する。彼女はテレパシストの16歳の少女――ということになっている。16歳の少女…。16歳というまだあどけないはずの面影は、そこからは微塵も感じられない。
 さらに後々、東丈が登場する。彼もまた、どう見ても17歳の高校生男子には見えない。おでこが広い。おでこが広いということは、髪が薄いということである。実に東洋人的な面持ちであり、その無表情に押し込めた感受性の乏しい気怠さが重く感じられ、直ちに悪者を懲らしめてくれるような漲る正義感は、彼のこのおでこの広さからは想像できず、その性格のひ弱さに心が打ちのめされてしまっているようで、街から一歩も出そうにない。ちなみに彼は、高校の野球部のレギュラーから外されてしまい、只々そのことに屈伏し、世の中の沙汰に服従しようとしているだけであった。
 しかしながら不思議なことに、東丈には恋人がいた。彼の恋人とされる沢川淳子は、不思議な魅力を持った女性である。その魅力の根源がいったいなんだかよく分からないという魅力である。目つきがきりりとしている。考えてみれば彼女も同じ高校生なのだ。まったくそうは見えない。あまりに大人びてしまって、将来咲き乱れるであろう可憐な花の蕾――花咲く前夜という予期する期待感はまるでなく、もはや咲いた花びらの一片は散らんばかりの、詫び寂すぎた様相である。すべてが熟れすぎてしまっているこの呈は、いったいなんだろうか、と思った。
 不気味な大人達のようでもある、大友克洋の描くこの世界の有り様は、私が認識している地球物理とは違うアングルで進行しているとしか、言いようがない。1年の月日は、ここでは彼らを5歳も年を取らせているかのようである。少なくとも彼ら高校生らの、ごく当たり前の純然たる快活さはほとんど見当たらず、沈殿した心の暗鬼のようなものを内側に所有し、まるで別の惑星の異なる科学的法則によって生じた社会的感覚と感性、あるいは秩序といったものが形成されており、それがこの『幻魔大戦』の根源的な陰鬱さの正体ではないかと思われる。
 されど、私はこの映画に対して悪評を述べているのではない。その真逆である。敢えて言うなれば、この惑星=地球のすべての生き物が、来たるべきハルマゲドンを予感し、その不安におののきながら生息しているのであった。だから彼らは無用に年を取っているのである。ただし、これは私の勝手な推測に過ぎない。
 別の惑星のようであり、でもそれは確かに地球の姿なのである。日本の大都会の片隅にフォーカスした、地上の住人の動的な暮らしぶりが部分的に描かれている。これら全体の欠損してしまったリアリティの描写が、かえってこの映画の魅力を引き立たせていることを、私は言いたいのである。
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【『幻魔大戦』DVDパッケージの裏面】
 1983年3月に公開されたこの映画の監督はりんたろう(当時の表記はりん・たろう)。原作は平井和正、石ノ森章太郎(石森章太郎)。角川映画の初のアニメーション作品。
 1983年というと――振り返って36年前を厳密にたどってみると、私はまだその頃、春休み直前の小学4年生であった。映画公開後、春休みの期間となって、それが終わる翌月に、新たな教室で新5年生となった。
 この頃の記憶はもはや、遠い果ての消えゆく瑣末となりつつある。少年時代に自ら体験した事柄を、超然と思い出していくことはもう困難になってきている。36年前の春休みの期間、あるいはその直前、この『幻魔大戦』を映画館で観たのか、と訊かれれば、今のところ私は正直に、ノーと答えるしかない。この映画の残像が、蓄積されたいくばくかの記憶の底部に、ないのである。
 だから故に、なのだ。だから今、観るしかないのであった。ふとしたことで1983年の映画、“ゲンマタイセン”というタイトルを思い出し、感性が湧きだした。観てみたいという欲求と、あのおでこの広い主人公のなんたるかが知りたくなって――。
 あの頃、テレビやラジオ、又は新聞・雑誌などのメディアでこの映画の封切り前の宣伝広告を見聞したのは、確かな事実である。しかし、映画そのものは観ていない。〈――何故あの時、観なかったのであろうか〉。
 今こうして、『幻魔大戦』のDVDやその他の資料を掻き集めてみると、不思議な感覚に陥るのだった。それは、あの頃の自分に戻るというのとはまったく違うのだ。過去の何事かの体験の記憶と、現在体験しつつあることの記憶の重なり合いの奇妙。この体験に由来した遠近の間合いが狭まって、過去と現在との時空が、いっぺんに掻き乱れて狂ってきてしまう不可思議さを感じるのであった。
 映画はまったく静かに始まる。
 紛れもなくそれは、我々の知る地球。地球の全景が映し出される。この地球に起こりうることを《予兆》した、そのあまりにもストイックなシークェンス。ここでの音楽は、佐渡國鼓童の締太鼓であろうかと思われる(サントラの資料を私はまだ調べていない)が、まるで時計の秒針を刻むかのような小さな連打音であり、不安が増幅され、大規模な危機を予感させる。
 ジェット機に搭乗しているルナ姫の予知が的中する。隕石がジェット機と激突し、ルナ姫の身体は放り出されて絶体絶命であったが、見知らぬ声に包まれ、彼女は救われる。宇宙意識のエネルギー生命フロイがルナに呼びかけるのだ。ルナはそこで、幻魔のヴィジョンを見た。恐るべき幻魔の、大宇宙の破壊の光景を。10億年に及んで無数の宇宙の星々が消滅していくというのだ。
 新宿のビル群、街。女占星術師が現れ、奇抜な踊りで幻魔の到来とハルマゲドン(地球滅亡)をうったえかける。おどろおどろしく、妖しい占星術師である。ルナ姫が、宇宙意識のエネルギー生命フロイの記憶をたどり、200年も幻魔と戦い続けたサイボーグ戦士ベガ(あの隕石は2千年眠り続けたベガの致命カプセルだった)と、その恋人アリエータとの“悲恋の最後”を目撃する。そのシーンの後、おでこの広い東丈が登場して、物事は動き始め、事態は急展開していく。ルナ姫は既にサイオニクス戦士となり、そのルナ姫とサイボーグ戦士ベガの急激な接近と画策によって、東丈も自己の潜在能力に目覚め、サイオニクス戦士となる。
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 ところであれは確か、小学4年生(1982年)の頃のこと。
 クラスのサッカー少年団の人員が足りないといった理由で、友人から無理矢理の勧誘に応じてしまった私は、そのチームに“補欠人員”として所属することとなり、苦手なサッカーの練習をやり始めたのだった。私にとっては苦痛な毎日が始まった。
 授業のない土曜の午後や日曜日ともなると、他校との練習試合に参加したりする。苦痛の境地である。市内のサッカー大会にかろうじて出場したりしたけれど、それも苦痛の極みでサッカーなどまるで身にならなかった。少年であった私の身体からは、まるで磁石の反撥のようにしてボールが離れていくのである。それはそうと、学校外の試合に出掛けた際、必ず携帯していたのが、スポーツドリンクの“ゲータレード”(Gatorade)の入ったボトルであった。
 これがまったく美味くなかったのである。液体のボトルで販売しているものではなく、パウダータイプのもので、水に溶かしてボトルに入れて持参するのだった。当時、スポーツドリンクのたぐいは出始めで、まだその味に慣れていなかったせいもある。薄ぼんやりとした味で舌に馴染まない。飲むたびに不味いと感じた。炭酸飲料のコーラやファンタと比べ、雲泥の開きがあると思った。
 しかし、少年団の皆が同じ“ゲーターレード”のドリンク(プラ製の緑色のボトル)を持ってきていたので、私も同化してそれを持参していたのである。練習は辛く、試合はすこぶる嫌。しかも持ってきた飲み物=“ゲーターレード”は最低に不味い。何から何まで苦渋に満ちた日々をやり過ごす、本当に辛い時期であった。
 そのうち、ポカリスエットの缶が、近所のコンビニで目に付くようになった。大人達はそれを飲んでいるらしかった。はっきり言って、“ゲーターレード”の終焉を予感した。
 それでもやはり、ポカリも最初、美味いとは思わなかった。イオン・サプライ飲料だ、と言われても、何のことかさっぱり分からない。ただし、ポカリのコマーシャルだけは、神妙に見入っていたのだった。いつの間にやらスポーツドリンクと言えばポカリ、という常識に世の中が変わり、ポカリって美味いの? 不味いだろ? といった評判はあちこちで聞くようになった。それだけポカリが有名になったということである。
 そんな頃、私はサッカーの少年団から――外れた。自主的にやめたのだった。途端に身が軽くなり、あんな不味いスポーツドリンクを飲まなくていいようになった。
 『幻魔大戦』の協賛は、ポカリの大塚製薬だったのだろうか。だとすれば当時、そうしたコラボ広告が何かしらで目に付いたと思われ、おそらく映画館の館内ショップでは、あのブルーの缶のポカリがずらりと並んでいたに違いない。何しろ、主人公の東丈が――新宿の街の場末で――ポカリの缶を蹴り上げているのだから、映画のスポンサーだった可能性はある。
 そうすると、当時私がこの映画を何故観なかったか――の理由が、なんとなく推測できるのだ。いや、どうもそれ以外には考えられない。『幻魔大戦』とポカリのコラボ広告。スポーツドリンクというアイテムが、私の直近の辛い記憶をよみがえらせ、反撥する。サッカーのボールのように。だから私は、この映画を避けたのだ。
 ちなみに私は、1983年の夏休み中、ルーカスの映画『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(現タイトル『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』)を5回ほど映画館で観ている。映画狂でSF好きの少年の私が、本来、カドカワで話題となっていた“ゲンマタイセン”を無為に外してしまうはずがない。だから理由は、それ以外に考えられないのであった。
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【『幻魔大戦』DVD封入リーフレットより】
 おでこの広い東丈、そして恋人の沢川淳子が不気味。それ以上に、姉の東三千子がまったくミステリアスなのだった。弟との関係性がなにやら不穏。不可解な雰囲気。三千子というキャラには、天真爛漫なところがなく、肉親に対して情が厚いのか薄いのかまったく最初、よく分からなかった。訳ありの関係に見えるのだ。『幻魔大戦』に出てくる人物像はどこか、おかしい。どこかネジが取れてしまっていて、狂っている。狂っているが故に、観ていて虜になる。
 東丈の平凡なはずの生活環境が、その学生的な佇まいのリアルさと鬱屈したカタルシスとを行き来するかのようで、観ていて奇妙な感覚に陥る。このことは、やはり地球ではないようなディテールを意味し、地球の重力圏とは違った、まったく別の惑星の出来事のように思われ、首を傾げながらぞくぞくしてくるのである。
 彼の部屋には、雑誌『ぴあ』が無造作に置かれていた。80年代らしい光景だ。本棚には、映画関係者及び映画狂必読の分厚い本=フランソワ・トリュフォー著『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』が置かれている(ショットとしてはほんの一瞬しか見えない)。この『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』は、トリュフォーがヒッチコック作品のメイキングを鋭く本人にインタビューし言説せしめた優れた名著で、実は私も高校生の頃、貪るようにこれを読んでいる。日本では1981年に出版された。
 東丈の部屋の本棚には他にも、オーストリア・ハンガリーの画家であるエゴン・シーレ(Egon Schiele)の本がある。それは画集のようだ。ただならぬ本棚の様相で、東丈が何者であるか分からなくなってくる。
 さらに別のシーンでは、部屋の壁が見える。マイルスのポスターである。マイルス・デイヴィスの『We Want Miles』。これは1981年、新宿の西口広場にて、マイルスがマーカス・ミラー、ビル・エヴァンスらと共に、まったくと言っていい“奇跡”のライヴをおこなった時のパブリック・ポスターである。
 その前年、ジャズ評論家のいソノてルヲ氏が、自身のラジオ番組「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」でマイルスについて語っている。50年代以降のトランペッターを特集した際の、昨今姿を消してしまったマイルスを憂いでの発言。マイルスはどこのジャズ・フェスにも参加していない。それでもアメリカのどこかで生存しているはず。彼はもうジャズを忘れてしまったのだろうか…。いソノ氏の口調は淋しげであった。
 だが、マイルスは、世界中のファンの強い要望に応えるようなかたちで、“奇跡”の復活を遂げたのだった。それがあの、ポスターである。新宿のライヴのマイルスは、ステージをとぼとぼと歩き回りながらペットを吹く姿が印象的で、想像を大きく膨らませると、まだ中学生か高校生になったばかりの東丈が、それを生で目撃したかも知れないのである。つまり彼の心には、マイルスの切ない響きが常にある。これも幻魔によるハルマゲドンの《予兆》の沙汰ということになるのだろうか。
 部屋の壁には他に、ボブ・ディランのポスターが貼ってあるなど、彼の趣味の守備範囲を語るのに枚挙に暇がない。彼は未だ高校生ながら、フュージョンやクラシックを好み、システムコンポで音楽を聴くのだ。これら際立ったいくつかのファクトを考えると、彼は新宿の人気喫茶店・風月堂に出入りしていたのではないかと想像してしまうのだが、風月堂は1973年に閉店しているから、ストーリーの時系列としてはあり得ない。だがこのことは、私にとって確信できることである。
 新宿――いや少なくとも中央線の沿線で、彼は何気にクールな趣味を引っ提げて日常生活を送っていた、はずである。この映画のモチベーションはずばり、宇宙の果てでも幻魔のハルマゲドンでもなく、シンジュクが中核なのである。シンジュクというサブカルが、彼のサイキックのすべてであるのだ。
 後半、彼に寄り添って仲間達が数人現れるが、特にニューヨークの黒人少年ソニー・リンクス(声はなんと子役だった頃の俳優・林泰文さん)以外、描かれるディテールはあまりにも薄い。幻魔のザメティやザンビもしかり。幻魔カフーにつけ込まれた東丈の友人・江田四郎とそのカフーとの関係においても、映画の中ではどうでもよく、あまりよく描かれていない。
 東丈がとあるシーンで駆け込んだ派出所は、新宿の角筈三丁目である。これは重要だ。そこはまさに60年代のサブカルのメッカ、風月堂のあったあたりなのだから。彼がその新宿でポカリを蹴り上げた、言わば比喩的な80年代のニュー・ウェーヴが、東丈という主人公に集約されている、いや彼自身を創り出しているのである。
 少々、話が長くなりすぎてしまった。映画『幻魔大戦』については、まだまだ語り尽くせない点が多いから、いつかまたこの話の続きを――。ハルマゲドンでお会いしましょう。

コメント

  1. 匿名 より:

    幻魔大戦アニメ化の経緯としては、角川春樹が劇場版銀河鉄道999を見て、りんたろうに好きなように新感覚のアニメを作らせてみたかったことが主たる目的らしいです。
    幻魔大戦にした決め手の理由が、「当時、角川春樹の元に預けられていた西武グループの御曹司堤康二が小説の幻魔大戦のファンだった」。
    りん・たろうが大友克洋を採用した新感覚アニメという評価が適切だと思います。
    タラレバかもしれませんが、これがなければ、童夢もAKIRAもなかったのではないかと思います。
    ちなみに、原作では人間肉ボールなのがエネルギーボールになっていたり、ニューヨークのソニー接触前にニューヨークが被災するのはモブシーンを予算や工数の都合上書けなかったという非常に内部的な事情らしいです。
    あと、この映画の製作発表直後に、石森章太郎マネージャーが角川サイドと平井和正サイドに抗議し、
    書き出すと長くなる事態が発生しました。
    石森章太郎は全然タッチしていないのに映画製作の名前に入っていたり、
    平井和正の角川版幻魔大戦の連載が映画公開時に合わせて終了し、ハルマゲドンと改題するのは
    そういうすったもんだの結果です。

    • Utaro より:

      コメントありがとうございます!
      確かに、大友さんを起用したというのは、大正解だったと思いますね。その後の日本のアニメ界がこれで大きく変わった、と言っても過言ではないのではないでしょうか。
      当時の角川さんというのは、単に原作を映画化するというだけではなく、様々なメディア戦略に長けていたんでしょうね。あの頃、書店へ行くと、『幻魔大戦』の本や広告が非常によく目立っていたのを憶えています。
      だから必ずしも原作に忠実な映画化を、というスタンスではないから、水面下でいろいろな問題があったんでしょうね。

      この度は大変貴重な情報ありがとうございました!

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