『洋酒天国』と世界の酒盛り

【『洋酒天国』第6号】
 最近、“モフモフ”という擬態語=オノマトペが流行っているようだ。某テレビ番組のタイトルにも使われたりしていた。一昔前ならフカフカと言ったもの、あるいはモコモコと言ったものをもっと可愛らしく表現したのが、“モフモフ”ということらしい。それで、あくまでこれは個人的な意見であるが、先月から(いや、もっと以前から…)私が断続的に飲んでいるアイルランドの黒スタウトのビール=ギネス(Guinness)の舌触りというのは、これまでフカフカでもモコモコでも言語表現しきれなかったのに、今まさに“モフモフ”というオノマトペに出合ったとなれば、このビールに対してこの表現が一番相応しいではないか、声を出して言いたいのである。〈モフモフ! ギネス! モフモフ! ギネス!〉。世界中で流行って欲しいのでございます。
 ということでお酒の話題から、ヨーテンの話題へ推移しようと狡猾に策略したのだけれど、今回はそのアイリッシュではなく、おフランスなのである。フランスと言えばワイン、日本語で古風に言うと葡萄酒――。ワインは普段、私はあまり飲む機会をこしらえていなかった。ただし今、南仏「レゾルム ド カンブラス」のカベルネ・ソーヴィニヨンを美味しくいただいている。まあ、この話題はまた後にしよう。何はともあれヨーテンへ、いざ、出発進行――。
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 壽屋PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第6号は、昭和31年9月発行。表紙はお馴染み、坂根進氏のペーパークラフト。冊子の扉を開くと、柳原良平氏のちょっと官能的なイラストがあって、《水は外に 酒は内に 女は床に!…》と古代ローマ、ペトロニウスの「トリマルキオの饗宴」の箴言の引用テクスト(原文を読んでいないから詳しくは不明)。「トリマルキオの饗宴」は青柳正規氏の解説でいい本が出ているようだ。関心があるので、後でそれを買って読もうと思っている次第である。
 昭和31年の世俗を一つ挙げてみる。千葉の公団稲毛住宅初入居、というのが当時のニュースになったらしい。入居者は、“関東団地族”と称されてはしゃいだらしいとか。団地(正式名は日本住宅公団地)という俗称は、昨今あまり世間で飛び交わなくなってきたが、私も幼少の頃、“団地族”の一員であった(当ブログ「ボクの団地生活」参照)。
 昭和の団地暮らしというのは独特なもので、ほぼ同程度の所得層が集う、基本的には和やかな雰囲気の半集団生活族――といった感じ。それは子供の目線からも理解できたが、複数の棟を一帯とした、それなりのコミュニティが形成されていたりした。喩えると、これは多少屈折した言い方になるけれども、マイクロプロセッサの高速演算能力に近い巧緻なコミュニティ形成には決して成り得ないが、トランジスタくらいのゆるい温かみ程度には、真心と人徳があった――。集団生活の営みにおける幸福度を数値で表すことは不可能だけれども、文化圏が一つ形成される単位としての公団地は、その数の分だけ文化的水準が高かったと思っていい。文化的水準の高さと人間の幸福度が比例するかどうかは、私には分からないが。
【野口久光のエッセイ「フランス人と葡萄酒」】
 文化的水準が軒並み高いと思われるフランス。「フランス人と葡萄酒」というエッセイで映画評論家の野口久光氏が、フランスのヴァン(Vin)について、あれこれと書き連ねていてその認識が日本でも一般常識として深まることを望んでいるかのよう。かつて向こうでは天然水の小瓶が80フラン。ボージョレーなどのヴァンなら一杯15フランから18フランくらい。水より安いということ。
 ヴァンはフランス人の食卓になくてはならないもの。野口氏は、Vin de Tableすなわちテーブル・ワインについて語っているのだけれど、つい最近、コンビニで売られているワインの陳列を見ると、フランス産のワインが微妙に少なく、チリ産だったりスペイン産が多かったりと、諸外国との競争が激化してしまっているのに気づく。
 フランスでは今、どうなのであろうか。とどのつまり、少なくとも日本では、ことさらワインと言えばフランス――という時代ではなくなってしまっているのだけれど、本場では同じことが起きているのだろうか。また、日本で作られているワインもけっこう美味しく、諸外国のワインとの人気競争レースにすんなりと食い込んできている。個人的には滅多に買わないワインであるが、いったん飲むとなるとさて、どこの産地のワインを買おうかと、本当に悩んでしまうのであった。
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【早田雄二撮影、マルティーヌ・キャロルのセミヌード】
 マルティーヌ・キャロル(本文ではマルチーヌ・キャロル)の美しいセミヌードが今号に掲載されている。写真は早田雄二氏。昭和の大スターを撮りまくった1916年生まれの写真家である。ちなみに早田氏は、1991年5月、晩年のマイルス・デイヴィスも撮影しているというからちょっと驚いた。マルティーヌはフランスの映画女優で、1960年のルネ・クレール監督の映画『フランス女性と恋愛』(La Française et l’Amour)では、『モンパルナスの灯』でモディリアーニを演じたジェラール・フィリップとも共演している。この時の早田氏の写真は、マルティーヌが夫同伴で来日した時のようで、《日仏親善の小さな役割を果せたと思っている》と彼は述べている。なかなかここまで大女優に肌を露出させてしまうとは、さすが早田氏の人柄。巧みな話術の才も功を奏したようだ。
【薩摩治郎八・おとぼけ回想記「世界の酒盛り」】
 薩摩治郎八氏の連載エッセイ「おとぼけ回想記」は、いつも心地良いロマンチックな気分に浸らせてくれる。彼の直情的な手八丁口八丁は、女性をくどく才智に秀でて天賦と言うべきであり、まさしく古代ローマの王侯貴族の暮らしぶりを彷彿とさせる、屈指の放蕩磊落の人なのであった。そういった日常の豪快さが随所にみられる「おとぼけ回想記」は面白い読み物である。今号の題は「世界の酒盛り」。
 そのタイトル自体、既に豪快さを物語っている。今回挙げられた酒盛りについては、彼の著書『せ・し・ぼん―わが半生の夢―』(山文社)の中でも語られているようだが、彼はこの酒盛りをこう述べている。《世界最美の酒盛り、それは私の先輩なるパリの工業家レスレル君が私を主賓として催した裸体美鑑賞の酒宴》
 いったい何事かと思う酒宴の極みだけれど、レスレル君とは、フランス学士院会長兼化学者である某氏の子息。《ソルボンヌ大学のギリシャ哲学科から文学士の肩書をもって素っ裸で舞台に飛びだした文学少女ヌード・ダンサー、コレット・アンドリス嬢》に惚れ、結婚。《大邸宅の大ホールにステージを設け、屋上庭園には五色の電気噴水を吹きあげて、裸の花嫁の肉体美を、男の中の男と選りすぐった花のパリの社交界の花形数名に鑑賞させようとの仕組》。薩摩氏はインドのキャプタラ殿下(マハラジャ・カプクラ殿下)と同伴して列席したという。
 そこにはダイヤモンドをちりばめた夫人の裸体がありつつ、名だたる世界の銘酒が並んでいた。《シャトー・イッケンの白ぶどう酒、ロマネ・コンテの古瓶、ポムリー・シャンパン酒の名年号の大瓶》。薩摩氏はすっかり、破天荒な酒宴に大喜びしたようだけれど、これには悲しい後日談が添えられているのだった。
 3年後、薩摩氏はアルプス山中のシャモニーの旅館にて、コレット・アンドリスと再会。その姿はすっかり痩せ衰えていたという。そして数ヵ月後、彼女は亡くなった。《この世界最美の酒盛りの追憶は今日でも私の胸を妖しい感慨で揺すぶるのである》――。パリの名ダンサーだったコレット・アンドリスをモデルにした1920年代作とされるSierre Thiriotのポスターなるものを私は見た。画の中の彼女のシルエットはとても美しかった。
【コラム「グローニングチーズ」】
 名義欄に“ひがしやま順・作家・投稿”と付記されたコラム「グローニングチーズ」を読んだ。筆者は1927年の食品百科辞典にグローニング・チーズ(Groaning Cheese)という項があって目にとまったとしている。直訳すると、うなり声を上げるチーズ。筆者が不思議に思ってその項を読んでみると、どうやらこういうことらしい。
 昔、オランダでは、奥さんの出産時に、旦那がお祝いにチーズを贈るのだという。その産みの苦しみのうなり声から、グローニング・チーズなんだと。それは盆型をした大きなチーズで、赤ちゃんが生まれた際、真ん中を切って食べることになっている。真ん中を輪の形に切り、洗礼式の日に、赤ちゃんをチーズの輪の中にくぐらせる儀式をおこなうのだ。
 なるほど、チーズの原料は乳(牛か山羊)であり、その乳ですくすくと育つであろう赤ん坊を、まずは発酵した乳(=チーズ)の輪にくぐらせるという儀式。むろん、ここでの輪くぐりは、単なる輪くぐりではない。つまり、この世に生まれ出ることの意、すなわち子宮からの膣口をそれは指すのだろう。夫が奥さんへのお祝いに、という点においても、まことに理知に富んだ、神妙なる習わしではないかと思われる。
 家庭でチーズを作る文化がない日本では、その本当のありがたみを感じ得ないのではないか。偉大なる母への感謝の気持ち、そして産まれた赤ん坊の健康を祈願するということ。生と食とが結び付いた古来の、まったく感心させられるいい話と言える。
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 私が今嗜んでいる、「レゾルム ド カンブラス」のカベルネ・ソーヴィニヨンは、喉越しが爽やかな、明るいワインである。飲むと心が晴れやかな気分になる。春の食卓にはぴったりである。
 このワインは毎年、国際コンクールで受賞されている、という点も頷ける。ウイスキーは一人で飲む酒であるが、ワインは人を交えて語り合う際の、最良の友である。だから逆に、一人で飲むワインというのは、あまり美味くない(と私は思う)。
 ――今これを書いている最中、パリのノートルダム大聖堂が火災で建物の一部が崩落するというニュース映像を見た。先述した野口氏の「フランス人と葡萄酒」から引用して応援のメッセージとしたい。《フランス人の人間的な温かみやこの国民の根強いエネルギーが「ヴァン」のグラスから生れているように感じられた》。ヴァンによる晴れやかな休息によって育まれた叡智を期待する。再建へ向けて大きな夢をもとう。Bon Courage!

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