【Adobe Fireflyの人工知能に描かせてみた哺乳類マストドンのイラスト】 |
個人的なお知らせでたいへん恐縮なのだけれど、わたくしことUtaro/青沼ペトロは、今月21日に、これまでおおむね13年間、ソーシャルメディアの軸足として利用し続けてきたツイッターから完全撤退した。ツイッターに関しての思いの丈は、昨年12月22日付の「果てしないツイッター論」で詳らかにしている。
これ以後、マストドン(Mastodon)にて個人的な独り言、コンテンツの更新情報、稚拙な言説、ニュースに対する雑感、備忘録、旅先のレストランでおいしい食事をしている現場報告(これはちょっと少ないかも)などなど、あらゆるティッカー的なツールとして発信していく旨、ご報告する。マストドンを既にご利用の方々、初心者である当方に対するご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします――。
ツイッターから完全撤退した理由については、こう述べておきたい。
このところ、ツイッターのユーザーの決して少なくないであろう憤懣やるせない思いを、全く省みようとしない“実業家たるキング”の不実ぶりに、ほとほと愛想が尽きたというか呆れたからである。
イーロン・マスク氏の頭の中には、ツイッターというソーシャルメディアを、これまでとは違う別の「スーパーアプリ」にしていくプランがあるという。なんとなくその中味がわかりかけてきたので、これまで通りにツイッターを軸足にしていたのでは、なにかといろいろ、不利益やら不都合が生じてくる――という個人的な判断があった。この判断は、いわば第六感による反射的避難に近い。已むなく撤退を決めたのは、そういう理由だ。
別段、これから先、マスク氏を目の敵にして「反マスク派」を名乗る気などさらさらない。が、来るべき時が来た――というほど大袈裟なことではないにせよ、いや、もしかしてマスク氏のこの一連の動向は、その専制主義的な身勝手さゆえに、ソーシャルメディア全体の地殻変動を引き起こしかねない、見えざる急進的クライシスなのではないか――という恐怖感も強くある。いずれにせよ、ソーシャルメディアの新たな時代の予感を感じさせるには、じゅうぶんなファクターであったといえるかもしれない。
【マストドンは分散型SNSの先導者たりうるか】 |
ツイッターからマストドンへの決意
既に今年の2月、私は分散型のソーシャルメディアであるマストドンのインスタンス(mstdn.jp)のアカウント(@tootutaro@mstdn.jp)を取得。その時点から、きわめて寡少なツゥート(ツイッターにおけるツイートと同義。もとはラッパを鳴らす意)をしていた。ちなみに、その頃のツイッターとマストドンの利用頻度の比は、おおよそ9:1くらいだったと思われる。
私がツイッター上で初めてマストドンについての情報をリツイートしたのは、今年1月26日付iphone-mania.jpの、Appleフェローのフィリップ・シラー(Philip W. Schiller)氏が、“ツイッターのアカウントを削除し、マストドンに移行した”――云々のニュースであった。その記事の中で、マストドンに関することが、以下のように記されていた。
《2016年3月にデビューしたオープンソースのマイクロブログサービスで、Twitterのようにユーザーのフォローやリツイートのような機能、ハッシュタグなども利用可能となっていますが、分散型のソーシャルネットワークであるという点がTwitterと最も大きく異なっています。個々のサーバー(ノード)にユーザーがサインアップするようになっており、最大のmastodon.socialのアクティブユーザー数は139,000人(2023年1月26日現在)となっています》
(「フィリップ・シラー氏、TwitterからMastodonに移ったことが判明」 https://iphone-mania.jp/news-520673/)
その情報がきっかけで、私は、小林啓倫・コグレマサト・いしたにまさき・まつもとあつし・堀正岳著『マストドン 次世代ソーシャルメディアのすべて』(2017年6月刊/マイナビ新書)の本を買い、マストドンとは何かについて、詳しく知ることができた。おそらくアカウントを取得したのはその直後だったはずである。
イーロン・マスク氏がツイッターの「言論の自由」を担保するといった健全な動機でツイッターを買収した――わけではないことが、先月あたりでほぼはっきりとした。
昨年来より、ツイッター社の人員削減計画(8,000人から1,500人に削減)が進んでいたことは、個人的にまだ理解の範疇であった。しかし、マスク氏自身のツイートを優先する“アルゴリズムの改悪”が発覚(2月17日付朝日新聞朝刊「マスク氏の投稿 優先表示か」)し、さらに“APIの有料化”の理不尽かつ拙速な断行によって、サードパーティーが次々と撤退しはじめ、ツイッターと外野とをつなげる直接的な利用者の不満と不利益が生じてきたこと、そしてX社との合併によりツイッター社そのものは消滅。
5月18日にはツイッターのサービス利用規約の改定版の発効がなされるようで、これまでよりもいっそう実業家マスク氏にとってご都合のいい発展的かつ建設的な解釈により、ユーザーのコンテンツその他が利用流用されていく恐れが懸念されており、まさにマスク氏のいう「スーパーアプリ『X』」への布石であることが頷ける。
ところでマスク氏本人は、諸々のスポンサー企業がツイッターに戻りつつあることを示唆していたが、ツイッターの業績悪化の諸悪の根源が、マスク氏本人のツイッター買収を起因としている“業績の推移データ”なども、各メディアが報道しており、マスク氏がおこなったツイッター買収にともなった、借入の利子の支払いが、年間15億ドルにのぼっているともいわれている。
もはや、ツイッターの将来の雲行きはあやしいどころか、単なるマスク氏の私物化に過ぎないのだとすれば、あまりにも馬鹿げた蛮行ではないかと悲しくなってくるのだ。
ツイッターからマストドンへ。
先に紹介した本『マストドン 次世代ソーシャルメディアのすべて』の中で、マストドンの開発者であるオイゲン・ロッコ(Eugene Rocco)氏の、「マストドンとは何か」に関する表明が記されていた。以下、彼のブログからの孫引きである。
《フェイスブックは人々が何かを築く力を持てるプラットフォームではないし、そうなることも決してない》
《ソーシャルメディアの未来は「フェデレーション」にある》
そしてマストドンは、《真にツイッターの代替となるもの》と強い態度を感じさせる言葉も記していた。
確かにかつて、フェイスブックが個人のプロフィールをもとに強靱な吸引力を持ち、そうした魅力あるツールであった時代からたちまち信頼関係を失っていったように、ツイッターもまた、もはや「何かを築く」力を持つプラットフォームではなくなっていったように思われる。
「何かを築く」先導者たちが、矢面に立つようなさまざまな理不尽要因の事象が相次ぎ、ツイッターは当初あったような信頼関係を築けなくなっていったのだ。それは時代の趨勢というにはあまりにも空しい、強権を振り回す経営者のエゴによる「散らかされたパーティー後の会場」の光景ではないだろうか。
フェイスブックからツイッターへ、ツイッターからマストドンへ――。個人的なソーシャルメディアの趨勢を見ても、そこには失ってしまったものと変わらなければならない真義のようなものがあって、私自身はそれを追い求めているのかもしれなかった。
【2023年2月17日付朝日新聞朝刊「マスク氏の投稿 優先表示か」】 |
ポンペイの古代都市の話
ソーシャルメディアの役割として担う、「何かを築く力」とは、いったい何か。
ハーバート・ロス監督の1969年の映画『チップス先生さようなら』をたまたま観ていた時、ポンペイの光景が目に飛びこんできた。主人公の若きチップス先生が、イタリア旅行で“ポンペイの古代遺跡”を散策し、のちに妻となるキャサリンと出会って親交を深めていくシーンだ。
なぜこの映画では、チップス先生が“ポンペイの古代遺跡”を訪れるのだろうか。
それはともかく、この“ポンペイの古代遺跡”で思い出したのが、糸井重里氏の本『インターネット的』(PHP新書)である。この本の中に、「ポンペイに学ぶ『消費のクリエイティブ』」という稿がある。つまり私は、ポンペイと聞くと、いの一番にこの本のこの稿を思い出すのだ。
糸井氏は、「ポンペイ展」の展覧会に行き、あることに気がついた。
ポンペイは、紀元前の都市であり、今よりも経済的な生産性はずっと低かったはずだ。しかし、その都市がとても豊かに思えた。あらゆるところに装飾、装飾、装飾。テーブルの脚が、猫足だったりする。彫刻や絵画にあふれ、とにかく装飾品だらけなのだと。
金持ちはそこらじゅうに豪華な壁画や彫刻をつくらせ、貧乏人はそれなりに、ペンキ画のような壁画を描かせる。ともかく、市民が好んで「財を使う意思」が見て取れ、生活を楽しくしようとしていたのではないか。
気づいたのは、消費が大事であるということ。質の高い消費が、人の心を豊かにするということ。そこには工夫や競争があり、個性を競い合っていたのではないかと。つまり、ローマ時代の人々の方が、現代人よりもはるかに消費の高みについて理解があったのではないか――と。
糸井氏はさらに、こうも述べている。
しかし彼らローマ人の消費の豊かさは、その時代に天才たちがどんどん輩出されたため――ということでもないらしい。科学者の研究による人類史上の天才ランキング100では、古代ローマ人はランク外で、古代ギリシャ人の方が優れていたのだ。確かに古代ギリシャ人は天才を多く輩出し、思想的に経済的にも理念は素晴らしかった。しかし、応用が利かなかった――。
「消費のクリエイティブ」が、古代ギリシャ人には足りなかった。逆に古代ローマ人は、ギリシャ人が発明したものを、徹底的に応用し、利用して、生活水準を上げていった。そしてなんでもかんでも物に装飾していき、豊かさ過剰な時代を築いていった…。
このあと糸井氏は、古代ローマ人の労働における奴隷と、現代人の奴隷的身分にあたる人々――すなわち、ふつうのサラリーマンがまさにそうだ――という話をするのだけれど、「消費こそ生産だ」という観念をもつことで、現代人は古代ローマ人の装飾過剰な豊かさとはまた違った別の、新しい価値観による消費の豊かさ、すなわち「消費のクリエイティブ」を生み出すことができるだろうか、というところに着目していたのだった。
ソーシャルメディアの役割とは?
私は、この糸井氏のいう「消費のクリエイティブ」という概念と、先述したロッコ氏の「何かを築く力」を結びつけて考えようとしている。糸井氏は『インターネット的』の「いばるな生産、すねるな遊び」の中で、このように述べている。
《生むはよいこと、増やすはよいこと、というような生産至上主義的な歴史観が、人類に生来備わっていたもののように思っているのは、ある時代までの幻かもしれません》
《ほっておけば、人間はもっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったんじゃないか、とも言えそうです。しかし、消費や遊びを軽蔑して、蓄積や生産に狂奔してきたことが、人間のエネルギーをすっかり疲弊させ、「つまらない動物」に変えてしまったという考え方は、どうでしょうか》
(糸井重里著『インターネット的』「いばるな生産、すねるな遊び」より引用)
そのもっと遊んだり消費したりすることに熱心――にさせるものが、ソーシャルメディアの役割ではないか。ことさら私は、サブカルをもっと楽しもうと、ツイッターでそうした情報を振り撒いてきたつもりである。
つまり、力点は、生産ではなく、消費なのだと。もともとツイッターにはそうした知恵が含まれていたのに、次第に思考の力点が、生産の方に移ってしまったのではないか。ツイッターの荒廃には、そういう背景があるのではないかという仮説である。
§
そもそもインターネットの黎明期は、“草の根民主主義”のネットワークだった。世界中の人たちが自由につながることができる新しい世界観のポテンシャルに歓喜し、その未来像を構築していったはずである。まさに人々は「消費のクリエイティブ」へと向かおうとしていたのだった。
端的に申し上げて、私は、イーロン・マスク氏の奴隷になりたくない、ということである。“草の根民主主義”を信じ、自分の周縁というこぢんまりとしたところから始めるしかないが、サブカルの大事さを今後も発信していきたい。
追記:X(旧ツイッター)は2023年9月25日付、新アカウントを暫定的に取得いたしました(情報収集用)。
追記:マストドンのアカウントは2024年2月21日付で削除。主力SNSの新天地はBlueskyに移行しています。詳しくは「青い空の下で―Blueskyという新しい世界」で。
追記:Xのアカウントは2024年3月9日付で削除いたしました。
追記:Xのアカウントは2024年7月9日付で再取得いたしました。
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